亜細亜太平洋広告裁心得秘伝。 | インタラクリ

亜細亜太平洋広告裁心得秘伝。

亜細亜太平洋広告裁心得秘伝。
インタラクリ-09060603

太平洋に昇る陽は、永劫の古代から
人類終焉の未来まで、変わることなく波間を照らす。

その波間に浮かぶ泡沫は、かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。

年々歳々、花あい似たり。
歳々年々、人同じからず。

時々刻々、口を糊するつとめにて、流され行く歳月の中にありて、
たまさか常夏の太平洋にて遭遇せる、得難き体験を忘れな草よと、
書き留める者なり。

ここに記すことどもは、
広告祭審査員室の奥深く分け入って得た、奥義秘伝なるべし。

末の世に続くはらからに、いくばくかでも伝わるならば、御の字。



伝之一、英語力は必須なり。

日本語がおぼつかなくて、日本の弁論大会で勝てる者は、いない。
世界で戦うには、英語力は必須である。

日本人は今、海外に学ぶべき時ではない。海外に教えるべき時である。
教えることが、最大の習い。
誇りを持って日本の広告を海外に教えに行くべし。

そのためにこそ、国際語たる「英語力」が必須であると、痛感した。



伝之二、審査応募はプレゼンと心得よ。

審査する者は諸国の広告事情など知らぬ。
応募作を短期間で審査するのみである。

なればこそ、応募側に甘えは禁物。
賞は審査員への「競合プレゼン」だと思うべし。

プレゼンテーターは、ただ「応募フッテージ」のみ。

そう思えば、どれほど磨いても、慢心はありえないとわかるだろう。

勝つは偶然、負けるは必然の教え通り。



伝之三、受賞作を金から見るべからず。

鑑賞者はグランプリや金から見るが、
審査する者は常に逆から順に決めてゆく。

メダル決定のプロセスを、追体験したければ、下から順に見るべし。

すべての候補作が、まずファイナリストか否かふるいにかけられ、
選ばれた作への覆面○×投票が集計され、
定数以上がブロンズ候補となる。

そこから挙手で、銀、金が順に決められ、
金の中から最高賞をどれにするか、議論が戦わされる。
そう見てゆけば、どうすれば賞に残れるか想像しやすかろう。



伝之四、代理店に援軍なし。

クリエィティブ・エージェンシーは、
己のフィーのエビデンスを得るために、

海外広告賞は、欠かせない。
公的な賞賛がある人物なら、金額の納得を得やすい。

博報堂は、そういうビジネスはしていない。
海外賞を獲ったとて、広告主から
新規アカウントが来るわけでもない。

結果として会社の評判に寄与するが、
個人の挑戦として粉骨砕身せよ、との理。



伝之五、リザルトなくしてソーワット。

海外賞で重視されるのは、一にオンブランド、二にリザルト。
大前提が、グッドエクスキューション。

西洋社会は「ロジカル」という建前をルールとして進行する。

こういうことをして、結果こうなったと、
恥も臆面もなく「説明」しなければ、
何ひとつ汲み取らず「ソーワット?」と斬って捨てられる。

わかると思ったら大間違い。



伝之六、応募する前に応募先を知れ。

最適な「応募カテゴリー」を読み切ることが、
受賞への唯一の道であることは、
海外賞常連ハンターの間では常識である。

スポーツのルールを知らずに、そのスポーツでは勝てない。

どのカテゴリーに当てに行くかで、当否は8割かた決まる。

応募要項には、どのカテゴリーを
どういう「基準」で審査するか、明記されている。

ただし、英語で。
日本的な「なんとなくこのカテゴリー」という曖昧さはない。



伝之七、審査員は疲労の極みと知るべし。

審査員はいづれも、
各国の広告界レースで第一線を走っているスター達である。

現在の経済危機と合わせて考えれば、
日常の業務負担は途方もないだろう。

何千という応募作に接するモラルは、
すべて各審査員に委ねられている。

進むほどにさらに募る、疲労困憊。

判断力は鋭いが、疲れ切っている審査員に、
どうアプローチしたら効果的か?

広告賞が競合プレゼンだとしたら、
その視点があって損はないだろう。



伝之八、奇策もオンブランドなればこそ。

目も眩む奇策であればあるほど、
それが「オンブランド」ならば評価される。

これも、国際広告ゲームのルールである。

日本人同士のような「なんかこのブランドっぽいよねー」
という判断はない。

その奇策が「なぜオンブランドなのか」シンプルに明確に
「説明」出来ること。

それは、企画が「見事」であることと、同義だ。



伝之九、国際派になるな、地元派になれ。

国際派の広告マンなど無能である。
ユーザーは世界中どこの国でも地元に存在する。

グローバル・エージェンシーが、
最もその「リアル」を知っているはずだ。

国際広告祭の弊害として、
「西洋ローカル」を世界標準と思う奢りと、

どこの地元民にもアピールしない
「世界言語的な表現」を評価しがちな傾向とがある。

広告マンは常に、自分が生きている
地元のユーザーに向けて、広告を考えるべきだ。

その文化的特徴を世界から持ち寄ってこそ、
国際広告祭の価値が発揮されるはず。

集まった文化の個別性の中に、
人類普遍、世界普遍を見出すこと。

集まった訴求方法の個別性の中に、
広告の次世代へのヒントを見出すこと。

これこそ、世界広告祭の最重要なつとめである。



伝之十、広告祭を最優先するは馬鹿者なり。

広告祭のために広告を作る者は、愚か者である。
広告主にとっては、犯罪者である。

広告祭での受賞は、最大級のPRである。
しかし、それは広告目的ではない。

ユーザーと真剣に向き合って、成果を出した広告事例を、
世界の広告界にシェアする。

そのために、それを携えて
世界サーキットへ渡航する。そうあるべきだ。

もし、成果を出さぬ広告で、
国際広告祭を目指す者を、称揚するならば、

それは、広告産業の早い時期の「死」を意味する。

今、広告産業が必要なのか、不必要なのか、
岐路に立たされていることは、皆が気づき始めているはずだ。

広告産業が必要とされるヒントを、
必死で探し学び、母国に持ち帰ること。

それこそが、今日、
広告祭に往く者がすべき一番重要なことだろう。



願わくば、後につづく若き同志諸君よ。

もし広告を愛するならば、
広告が死滅しない道を世界に問うて欲しい。

夜明け前が一番暗い。
ならば、二十一世紀の広告の暁は、近い。

太平洋に陽はまた昇る。さらば、潮風。
縁があったら、また会おう。