リヤ、トルストイそして馬鹿 | オーナーの読書室

リヤ、トルストイそして馬鹿

リヤ、トルストイ、そして馬鹿


ジョージ・オーウェル



トルストイの小論文は、彼の作品の中でも最も知られていない部分であって、シェークスピアへの攻撃についてのもの(*)は、少なくとも、英訳されたものに関する限り、手に入れるのは簡単ではない。おそらく、従って、このことを議論する前に私が、その小論文を要約することは有益であろう。


 トルストイは、次の言葉から始めている。それはすなわち、シェークスピアは、その生涯を通じて、「否応のない反発と倦怠」をその身内に抱え込んでいる、というものだ。文明世界が彼に敵対しているという評価を意識しながら、シェークスピアの作品について、彼は、ロシア語訳、英文、そしてドイツ語訳を読みつつ、次から次へと一つの試みをしている。「否応なく私は、同じ感情を経験するのであって、それは、反発、倦怠、そして困惑なのだ」 ちなみに、75歳で、歴史戯曲を含むシェークスピアの全作品を彼は再読しており、そして、


「私はより大きな力を感じたのであり、それも同じ感情なのだが、――今度はところが、困惑ではなく、しっかりと疑う余地のない信念であり、それは、シェークスピアのもつ偉大な才能のかくれもない輝きなのであって、それは、現代の作家たちをして彼を模倣させる力であり、また読者や観客をして、あり得ないメリットを見出させる力であり、――そうすることで、彼らの美学的な、また倫理的な理解を変形させるのであって、――このことは、一つの大きな悪であり、あらゆる虚偽なのだ」


 トルストイはまたこうもつけ加えている。シェークスピアは、単に天才ではないというだけではなく、“平均的な作家”でさえない。この事実を証明するために、彼は“リヤ王”を検証するであろう。このことは、ハズリット、ブランデス、その他からの引用により示すことができるのであるが、この“リヤ王”は、途方もなく華々しく賞賛され、シェークスピア作品の中でも最高のものでる一例として引用され得るのである。


(*)(原注)“シェークスピアと戯曲”というもので、1903年ごろ執筆された。これはもう一つ別の小論文、“シェークスピアと労働者階級”アーネスト・クロスビー著、のための紹介文である。


 それから、トルストイは、“リヤ王”のあらすじを紹介しているのだが、あらゆる段落が、ばかばかしく、冗長で、不自然で、不明朗で、野卑で、退屈で、そして信じられないような出来事に満ちていて、“激しい狂気の沙汰”であり、“愉快でないジョーク”であり、アナクロニズムであり、不遜で、猥褻で、古くさいステージ上の慣例であり、そしてその他、道徳上の、また美学上の欠点を述べている。いずれにせよ、「リヤ」(Lear)は、以前のそしてもっとベターな戯曲で、作者不詳である「リヤ王」(King Leir)からの盗作であり、シェークスピアはこれを盗用し、そしてぶち壊したのである。トルストイが研究しているところのそのやり方を示した段落を一例として引用することは意味がある。第三幕、第二場、(その中で、「リヤ」(Lear)、ケント、そして馬鹿が一緒に嵐の場面にいる)は、次のように要約されている。


リヤは荒地を歩き回り、自らの絶望感を表現する言葉を吐いている。彼は、風がもっと強くふくことをねがい、その風が彼らのほおを打ち、雨がすべてを水びたしにして、稲妻が彼の白髪を焼き、落雷が世界を平らにし、「人間を恩知らずにさせる」すべての虫けらどもをうちのめすことをねがうのである! その馬鹿は、いまだに意味のない言葉を吐き続けている。ケントが入ってくる。リヤが言う。この嵐の間に、何らかの理由で、すべての犯罪者が見つかって、有罪に処せられるであろう。ケントは、リヤがそうとは気づかず、彼を小屋に入らせようと努力している。この時点で、馬鹿が、この状態とは脈絡のない予言を吐く。彼ら全員が別れてゆく。


 「リヤ」についてのトルストイの最終的な評決は、催眠術にかからない観察者、そうした観察者がいたとしての話であるが、そうした観察者は、「嫌悪感と倦怠感」以外にどんな感情もいだくことなく、最後まで読み通すことはできないであろう、というものである。しかも、“シェークスピアの他の賞賛されているすべての戯曲、言うまでもなく、あの無意味な戯曲化された物語であるところのペリクリーズ、十二夜、テンペスト(嵐)、シンベリン、トロイラスとクレシダ”も、まさに同様なのである。


 「リヤ」をとりあげることで、トルストイは、シェークスピアに対してより全体的な告発を行っている。シェークスピアは、技術的なスキルをもっていて、そのことは一部、彼が俳優であったことに起因する。だが、そのことを除けば何のメリットもない、ということを彼(トルストイ)は見出したのである。彼(シェークスピア)は、状況から自然に湧き出してくる性格描写、あるいは、せりふやアクションをかたちづくる能力がないのであり、彼の言語は、なべて過剰で、ばかばかしく、たまたまそこにいた登場人物の口から自身の考えを、絶えず手当たり次第に挿入しており、“美学的感情の完全な欠如”を展示していて、そして彼の言葉は、“芸術や詩歌と共通するなにものを有していない”のである。


―――つづく