くじらの中で5 | オーナーの読書室

くじらの中で5

ところが1930年代において、ホイットマン的であることはむしろ何か興味深いものがある。もしもホイットマン自身がこの時代に生きていたとしたら、「草の葉」に最も似つかわしくないものを書いたかどうか定かではない。というのも、彼が言っていることは結局、「私は受け入れる」ということで、今受け入れるのと、その時受け入れるのでは、根本的な違いがある。例を見ないほどの繁栄の時代で、だがそれ以上に、自由というものがその語の持つ意味以上にあふれていた国、そういう国でホイットマンは書いていたのだ。彼がいつも話題にしていた民主主義、平等、そして仲間意識というものが、かけ離れた思想ではなく、目の前に存在している何かであった。19世紀中葉のアメリカでは、人は自分自身を自由で、平等であると感じ、純粋な共産主義以外の社会である限り、自由で平等であるはずだった。貧困と、階級差別さえもあったのだが、黒人を除いては、永久に埋もれてしまうような階級などはなかった。誰もが、一種の核のようなものとして、内部に自分はちゃんとした生活をおくることができるように稼ぐことができるはずで、しかも誰にも媚びずに、それができるはずだという信念をもっていた。マーク・トゥエインのミシシッピに出てくるいかだ乗りや、水先案内人、あるいはまた、ブレット・ハートによる西部の金鉱山従事者たちの話を読むと、彼らは、石器時代の人食い人種よりももっとかけ離れた存在のように感じてしまう。その理由はただ単に、彼らは自由な人間であるということだ。ところがそれは、例えば、「リトル・ウーマン」や、「へレンズ・ベイビーズ」、また「ライディングダウン・フロム・バンガー」のような東部の州の平和な家庭的なアメリカであってさえそうなのである。これらを読むとわかるように、人生には軽快で、のびやかな面があるように感じてしまう。それはまるで腹の底から感じるような肉体的なものである。ホイットマンが称揚しているのはまさにこの感じなのだが、実際のところ、彼はそのことを非常にまずいかたちで行っている。なぜなら、そのことを自然に感じさせてくれるのではなく、感じるのが当然であるとするような作家の一人であるからだ。彼の信条にとって、おそらくラッキーだったのは、大規模な産業と、移民による安い労働力が台頭することで、アメリカ人の生活が崩れるずっと前に死んでいたことだ。


 ミラーの外観は、ホイットマンのそれとかなり似通ったところがある。そしてそれを読んだほとんど誰もが、そのことを指摘している。「北回帰線」の最後は、特にホイットマン的な文章で終わっている。そこにおいては、淫乱、ペテン、けんか、酒飲み競争、さまざまな愚行ののち、彼はただ単に、セーヌのほとりにすわって、過去へと流れてゆくのを凝視しながら、それ自体を受け入れるという、ある種、神秘的な状態が叙述されている。ただし、問題はひとつだけ。彼は何を受け入れているのか? 先ずもってそれはアメリカではなく、ヨーロッパの太古からの人骨の群れであって、そこには大地のあらゆる土壌が、無数の人体の中を通過していた。二番目に、拡張と自由の時代ではなく、恐怖と専制、そして統制化の時代である。われわれのような時代にあって、「私は受け入れる」ということは、強制収用所や、ゴム製の警棒や、ヒットラー、スターリン、爆弾、飛行機、缶詰食料、機関銃、傷当て、粛清、スローガン、ベドーベルト、ガスマスク、潜水艦、スパイ、工作者、検閲、秘密の獄舎、アスピリン、ハリウッド映画、そして政治的殺人等々を受け入れることを意味している。こうした事柄だけではもちろんなく、こうしたことも他のものと同じように受け入れるということである。そして、全体として、これがヘンリー・ミラーの姿勢なのだ。これはいつもそうだというわけではない。というのも、折につけて、彼は文学上の郷愁についてのごく一般的な兆候をしめしているから。「ブラックスプリング」の前半の部分に長いひとつの文章があって、そこで彼は中世というものを評価しており、そこでは、散文が近年において最も素晴しいもののひとつであるとしているのだが、そこではまた、その姿勢は、チェスタートンのそれと大した違いはない。「マックスとホワイト・ファゴサイツ」では、工業化を憎悪する文学者として、通常の角度から現代のアメリカ文明に対する攻撃がある。(朝食のシリアル、セロファン等々)だが、総体としてのその姿勢は、「全部を飲み込んでしまおう」というものなのだ。従ってだから、それは人生の破廉恥さと、ハンカチの汚れた部分という見せかけの先入観なのである。それはただ見せかけなのだ。というのも、日常生活は、フィクション作家が通常認めているものよりはるかに恐ろしいものである、というのが真実だからだ。ホイットマン自身は、彼の当時の人が記述しがたいものの多くを“受け入れた”。 なぜなら、彼は草原について書いただけではなく、町へも出かけてゆき、自殺者のつぶれた頭蓋を描写していて、「オナニストの灰色の病的な顔」といっている、云々。しかしながら、疑問の余地なくわれわれの時代、とにもかくにも、西ヨーロッパでは、ホイットマンが書いていた時代よりも不健康で、希望がないのである。ホイットマンのようにではなく、われわれは今、縮小しつつある世界に住んでいる。“民主主義の展望”は、有刺鉄線の中で終焉を迎えた。創造と成長という感覚が少なくなり、いつまでもゆれているゆりかごへの注目が減り、どこまでも沸かしているお茶にどんどん注目が集まっている。現在ある文明をそのまま受け入れるということは、事実上、崩壊を受け入れることを意味している。積極的な姿勢をとることを止めて、受動的な姿勢をとること、――“デカダン(頽廃)”という言葉でさえ、その語の意味がここであるとすればそういうことだ。



――つづく