kujirano
何度も何度も私はそうした会話を聞いたのだが、しかもそうした会話をしている人々は、自身が無情であることすら意識していない。「北回帰線」は、若者のための本ではないことに留意するのは意味がある。これが出版されたとき、ミラーは四十代であった、そしてそれ以来、彼は3,4冊の本を出版したにもかかわらず、この最初の本が何年もつづいたことは明らかだ。それは、貧困と無名の中で徐々に成熟した本の中の一冊であって、その本は、何をやるべきかがわかっていて、だから待つことができる人々によってなされたのである。その散文はおどろくべきもので、「ブラックスプリング」のある部分では、それ以上のものがある。残念なことに、活字にできない言葉が随所にあって、私はそれを引用することはできない。だが、「北回帰線」を理解してみよ。「ブラックスプリング」を理解してみよ。そして特に最初の数百ページを読んでみよ。それらは、いまだに、この現代でも、英語の散文において、何が可能であるのかということをもたらしてくれることだろう。そこでは、英語は、会話体で扱われているのだが、しかし、その会話体には“おそれ”がない。つまり、レトリックや、異常なもの、あるいは詩的な言葉ということにたいするおそれがない。形容詞が、十年の流浪を経て、復活してきている。それは流れるような、膨れあがるような散文であって、そこにはリズムがあり、現在流行しているような、フラットで慎重な言い回しや、スナックやバーで使われるような方言がないのであって、そうしたものとはまったく違ったものなのだ。
「北回帰線」のような本があらわれたとき、人々が先ず気づくのは、その卑猥さである、というのはごく当然なことだ。文芸上の品位からすれば、活字不能な本に毅然と接することは容易なことではない。人は衝撃を受けるか、嫌悪感をいだくか、どちらかだ。あるいは、不健康なスリルを感じるか、または、こうしたものに影響を受けないでおこうとするものもいるであろう。最後のものは、たぶん最も一般的なリアクションである。というのも活字不能な本というのは、しばしば不当なほどに注目されないという結果に終わるからだ。卑猥な本を書くほど難しいことはない、という言い方はむしろファッションであって、すなわち、そういうことをするのは、話題性があって、金儲けのために書くのだ、云々ということになる。明確なのは、この場合そうではなく、警察裁判の意味における卑猥な本というのは、きわだって珍しいという点である。卑猥な言葉を使ってできるぼろ儲けがあるとするなら、もっとたくさんの人がそれをやっているはずである。しかしながら、“卑猥な”本がそんなにしょっちゅう出てこないことから、まったく不当なルールとして、そうしたものをひとまとめにしようとする傾向があるのだ。「北回帰線」は、他の二冊の本と何となく関連性がある、すなわちそれらは、「ユリシーズ」と、「夜の果てへの旅」(セリーヌ)なのだが、どちらもあまり似てはいない。ミラーがジョイスと共通するのは、日常生活のうつろで、むさくるしい出来事である。技術上の差異はともかく、例えば、「ユリシーズ」における葬式の場面は、「北回帰線」と合致する。その章全体が、一種の告白であり、人間のもっている内面のおそろしい無情の表出となっている。だがそこで、相似性が終わっている。ひとつの小説としての「北回帰線」は、「ユリシーズ」に比べればまったく劣っている。ジョイスは、ある意味で、一人の芸術家であって、その点においては、ミラーはおそらくそうではなく、あるいはそうであることをのぞんではいないのであって、そしていずれにせよ、彼はずっと多くのことを企図しているのである。彼は、意識や、夢、夢想、(“金のブロンズ”の章)や、酩酊状態などにおける異なった状況を追及していて、そしてそれらを、まるで“ビクトリア朝”のプロット(筋書き)のごとく、ひとつの巨大で複雑なパターンに適合させようとしているのだ。ミラーは、人生について語るには、端的にいってハードボイルドな人物である。彼は言語にたいしての知的勇敢さと、才能を有した一人の普通のアメリカ人ビジネスマンである。彼が、アメリカ人ビジネスマンについての誰もがいだく感じのように見えるということは、たぶん重要なことなのであろう。「夜の果てへの旅」との比較でいうならば、その点よりこれはさらに踏み込んだものなのだ。どちらも、活字不能な単語を使用していて、どちらもある意味で自伝的であるのだが、だがそれだけのことだ。「夜の果てへの旅」は、“目的をもった本”であって、その目的は、現代生活、――それは実際のところ生そのものなのだが、それへの恐怖と、無意味さから守ることである。それは、耐え難い嫌悪感からの叫びであり、汚水溜めからの声である。「北回帰線」は、ほぼそれと正反対である。物事がおよそふつうではなくなって、ほとんど異常とも思えるほどになっているのだが、これは、幸福であるところの一人の男についての本なのだ。「ブラックスプリング」にしてもしかり、であるが、ただし、少しだけそうではない。というのも、郷愁に彩られた場面が数ヶ所あるからだ。何年ものルンペンプロレタリアートの生活で、飢えと放浪、泥沼と不首尾、野外で過ごす夜、移民局でのけんか、わずかなキャッシュをめぐる果てしない苦闘などの中で、ミラーは、楽しんでいる自分を発見するのである。セリーヌを恐怖で満たした人生が、まさに彼にアピールしているのである。それまで“抗議していた”のが、彼は“受け入れて”いたのだ。そしてまさにこの“受容する”という言葉が、もうひとりのアメリカ人、ウォルト・ホイットマンへの共感を呼んでいるのだ。
―――つづく