くじらの中で2 | オーナーの読書室

くじらの中で2

 最初「北回帰線」のページを開けてみると、そこには活字にできないような言葉がいっぱいあって、そのときの私の反応は、鑑賞することを拒絶するというものであった。大方もそうであろうと思う。であるにもかかわらず、一定の時間が経過して、その本のもつ雰囲気が、その無数のディテイルをともなって、私の記憶の中に奇妙なかたちで漂いだしたように思われる。一年後、ミラーの二作目である「ブラックスプリング」(黒い春)が出版された。その時までには、「北回帰線」は、私の中で、最初に読んだときよりもずっとはっきりとした存在になっていた。「ブラックスプリング」についての最初の印象は、堕落することを表現しているということであって、これには、他の本に共通する一貫性はないという事実であった。それでも、さらにその一年後、「ブラックスプリング」には、私の記憶の中で、それ自身として根ざしている数多くの文節があったのである。明らかにこれらの本は、その背後にひとつの味わいを、ある意味で、宿しているように思われるのであって、――すなわちこれらの本は、その言い回しからして、「彼ら自身の世界を創造する」ことであった。このことを行っている本は、必ずしも良い本とは限らないが、「ラッフルズ」や「シャーロックホームズ」のストーリーや、あるいはまた、「嵐ヶ丘」や「緑色のシャッターのある家」といった、ひねくれて、ゾッとするような、そういう良質でなおかつ悪本、なのかものしれない。だが今や、そして再び、不可思議なものを解き明かすのではなく、身近なものを解き明かすことによって、新しい世界の扉をあけるような一つの小説がここに現れたのだ。例えば、「ユリシーズ」の真に着目すべき点は、その扱う素材がありふれたものであるということ。当然「ユリシーズ」には、このこと以外に他の要素もたくさんあるのだが、というのも、ジョイスは一種の詩人であって、そしてまた巨大な衒学者でもあるからなのだが、しかし、彼がほんとうにやり遂げたのは、身近なものを紙上に載せたことなのである。彼は、心中の低能さをあえて、――この“あえて”ということは、テクニックであると同時に、大胆さという事なのだが、――露呈し、そうすることで、彼は、誰もの目の前にあるひとつのアメリカというものを発見したのである。ここには、意思疎通することができないもの、それを誰かが四苦八苦してできるようになったもの、そうしたものの世界の全体があるのだ。そのことによるはたらきは、人間が生きてゆく上での孤独をいずれにせよ、絶えず解体することになる。「ユリシーズ」のある文章を君が読むとき、ジョイスの心と、君の心がひとつであるように感じられ、そして彼は、君の名前すら聞いたことがないにもかかわらず、君のことをすべて知っていて、そして、君と彼とが一緒にいるようなある異次元の時間と空間が存在しているかのように感じられるのだ。そして、その他の面では、ジョイスとは似ていないにもかかわらず、ヘンリー・ミラーにおいては、こうしたことの片鱗があるのだ。このことは、あらゆる面でそうだ、というわけではない。というのも彼の作品にはひどくむらがあり、そしてときには、特に「ブラックスプリング」においては、冗漫な、あるいはつぶれやすいシュールリアリストの宇宙へと滑り落ちる傾向がある。だが、彼の作品を5ページ、10ページ読んでみると、理解したというより、“理解された”というところからくる奇妙な安堵感を、君は感じることだろう。「彼は俺のことを全部わかっている」と君は感じるのだ。「彼は俺のために特別にこれを書いたのだ」一人の声が自分に話しかけているのを、君は聞いているかのようであり、それは一人のひとなつっこいアメリカ人の声であって、そこにはごまかしもなければ、道徳的な目的もなく、ただ単に、われわれはみんなよく似たようなものじゃないのかと、暗に想定しているのだ。とりあえず今、君は、通常のフィクション、たとえそれがりょうしつのものであってさえ、そうしたフィクションにあるうそや、単純化したもの、定式化され、操り人形のようなものから逃れているのであり、人間の目に見えるかたちでの経験というものに、君は接しているのだ。


―――つづく