多分駄文4 | オーナーの読書室

多分駄文4

ジャズのリズムについて


今から書くことはジャズの世界では常識である。いちいちことごとしく書きたてるほどのものではないだろう。従って、反論・異論があろうと私はそれに対して、どうということもない。そういうふうに、議論をするためではなく、一種の防忘録、あるいは、これまでこのブログに書き散らしてきたこと、また店のお客さんにえらそうにしゃべり散らしたことを、一度きちんとした文章にしてみよう、ということだ。そうすることでこれまで漠然と感じていた事柄を整理して、ひとつの知見として確認したいという思いがある。というのも、アメリカの黒人、白人ジャズマンでは自然に成立しているようなアンサンブルにおける共通のリズム感が、わが日本人では、必ずしも共有されていないのではないかという疑念が私にはあるからだ。これは、二年前のブログで、ロックのリズム感について書いた事柄と通底している。書かれたものを読むことで、そのことについての実証的な有効性はともかく、自分以外の他者との共感が得られれば、と私は思っている。


 あえて結論から先に言ってしまうと、ジャズという音楽は、50%以上スウィング感という独特のリズムによって成立している、ということになる。だが先ずもって、この「スウィング」という言葉にこだわってみたい。

「スウィング」

 という言葉は、“スウィングスタイル”というジャズのスタイルの変遷史上、1920年代から35年頃までのスタイルを言いあらわしていて、その後、「中間派」を経て、戦後の「ビ・バップ」に受け継がれるのだが、エリントンの

“スウィングしなけりゃ意味がない”

 という曲に代表されるように、スウィングという独特のリズム感が、普遍的に重要であるという認識が獲得されて現在に至っている。例えば、ブルーノートレコードの創業者で、有名なプロデューサーであったアルフレッド・ライオンは、有名、無名のジャズミュージシャンをスタジオに集めて、数多くのレコーディングを行ったが、そのレコーディングのできの良し悪しは、彼にとっての基準であるスウィングしているか、そうでないか、であった、というのは有名な話だ。あるジャズマンが一つの曲をレコーディングして、アルフレッドのごきげんがもうひとつだったので、次の曲を彼はもっと“スウィング”して、やったら、アルフレッドはニヤッと笑ってごきげんになった、というエピソードが残っている。従って、スウィングという言葉はかくのごとく普遍的な意味をもってはいるのだが、20年代から始まって、60年代にも頻繁に使用された語感があって、そこには、戦前戦後を通じてのスタイル上の印象がつきまとっていて、どうも現在の感覚と合わない感じがある。そうした過去のスタイル上の残滓を除いた、より抽象的な言葉として私は、「浮遊感」という言葉を先のブログで、ロックのリズム感を説明する際に用いたのだが、この「浮遊感」という言葉を、このジャズのリズムを言いあらわす際にも使用したい。偶然これは、東大でジャズの臨時講義を行った菊池成孔氏も使用しておられる。


 さて、この「浮遊感」なるものがジャズにとって50%以上の意味をもつ、と私は先に書いたが、それを視覚的にイメージするとどういうことかといえば、ボーリングで使用される重い球体が、左右に二本の強靭なゴムで固定されていて、そのボール自体が左右、また上下に動いている状態をイメージすれば、私がここでいっている「浮遊感」なるものがどういうことなのか、わかってもらえるかもしれない。この場合、このボールがソロイストの音楽的な意志をあらわし、固定された柵とそれからボールをつないでいるゴムが伴奏者だ。ボールは、その束縛から逃れようとするかのごとく、固定された柵からずっと離れた地点へ動こうとするが、強靭なゴムによってむすばれているため、また元の位置に戻ってこざるを得ない。しかし戻ってくると、慣性の法則で、逆方向に引っぱってゆかれる。絶えず静止した状態から揺れ動いている状態へと、その球体は運動を繰り返すのだが、ある時点で、均衡のとれた地点で動かなくなる。曲の途中の休止点か、あるいは一つの曲が終わった地点なのか。


 いずれにせよ、上記の状態を、もし実際に見分するとなると、やはりこれはかなり“危なっかしい”という印象があるのではないか。球体はどちらの方向へ動くのか検討がつかないし、それ以前に、強靭であるとされるゴムが切れてしまうのでは、という想像がはたらく。ジャズの即興演奏が“スリリング”であるとされるのは、こうした聴覚上の刺激が、上記のような事態をイメージさせているからなのではないか、と私は思っている。


 先のアルフレッド・ライオンのエピソードにもあるように、ジャズの演奏家は、先ずもって、上記の「浮遊感」を得るため、というよりその浮遊感の心地よさを体験したいがために、それを追求しながら演奏しているのではないかとさえ、思えてくるのである。


 ところで、こうした浮遊感を生じさせる運動のパワー、ないし契機(モチーフ)とは何なのだろう? それこそが、私が以前のブログで指摘した英語のダブル子音によるシンコペーションであり、もう一つはヨルバ語のもつリズム感である。ここで私が重要だと思う点は、英語の子音や、ヨルバ語があるからジャズのフレーズができたのではなく、上記の「浮遊感」が心地よいから、そうなった、という点である。リズムありきである。こうした視点は、外来文化を受容する過程で、存外、重要なのではと思う。日本人はややもすると、その文化の形式(かたち)から理解しようとする。ジャズの場合、曲の構造や、コードプログレッション(コード進行)を理解してから、演奏しようとする。それは、確かにかたちにはなっているだろうが、肝心のリズムの楽しさが伝わらないということになりがちである。またオーディアンスにしても、ソロイストの音のみを追っかけていると、ただ難解なだけで、意味もわからず、まして楽しむという境地にはならないのではないか。この発想を逆転させて、ジャズ演奏を単にリズムの遊びとしてとらえれば、その本質が見えてくるのではないだろうか。


―――つづく