コルトレーン再考2
さて、先に私が言った「コルトレーンも伝統に基づいている」とは、どういうことなのだろう? むろん、言うまでもなくチャーリー・パーカーの直接的な影響がある。バップ以降のミュージシャンは、すべてパーカーから始まっているといっても過言ではない。いまさらこんな分かりきったことを事々しく言う必要もないのであるが、1958年、プレスティッジ時代のトレーンの演奏からちょうど50年を経た現在、何か見えてくるものがある。それは、例えていえば、森の中にいると一本一本の木しか見えないのだが、森から一定の距離をとって離れて見ると、木の姿ではなく、森全体の姿がわかるように、当時、著しく屹立していたコルトレーンの像も、50年の時間的距離を経た現在、マイルス、ロリンズ、コールマン・ホーキンス、ジーン・アモンズといった巨人たちと同じ姿で見えている。コルトレーンといえども、ジャズの伝統であるアンサンブルにおけるリズム上のポイント、英語の子音と、アフリカのヨルバ語に基づくイントネーションをベースに形作られているフレーズを踏襲していることにかわりはない。
やや余談になるが、私は40年前からジャズを聴いていて、その当時から私の頭の中にはジャズのフレーズが鳴っていて、ときおり鼻歌で口ずさんでいる。それが、二年ほど前、ジャズにおけるインプロビゼーション(即興演奏)のフレーズは英語の子音に基づいているということを意識するようになってから、自分の中で鳴っているフレーズが若干変化しているように思われる。このことは、おそらく店を始めて以来、店で、コルトレーンの演奏をなぞって自らも楽器を鳴らすという事情も関係しているかもしれない。フレーズをつくる理屈が理解されたので、より精密に聴くことができているのだろうか。いずれにせよ、コルトレーンをジャズ演奏の伝統の中においてみるという作業が、先に述べた時間的距離感もあって、より冷静にできるようになったのかもしれない。
そうはいっても、コルトレーンはやはり私にとって圧倒的存在であり、アイドルであり、また師匠でもある。それでは、コルトレーンを、他のジャズの巨人たちと峻別させるものとは何なのだろう? ここで、40年来の疑問が再び頭をもたげてくる。それはすなわち、トレーンの音楽には政治的なメッセージがあったのか、なかったのか、というものだ。三年ほど前、コルトレーンの伝記を翻訳して、そのあとがきに、そのことは結局、神のみぞ知るで、わからないと、私は書いたが、ここで、上記に掲げた事柄を念頭におきながら、これは過去に何度も、何度も行ったことであるにせよ、さらにもう一度考えてみることにしよう。
--つづく