コルトレーン再考 | オーナーの読書室

コルトレーン再考

「チェーシン・ザ・トレーン」ではないが、ずっとコルトレーンを追いかけている。ほぼ毎日、トレーンのCDをかけて、その演奏を自らもソプラノサックスを吹きながら後追いしているのだ。そこでわかったことというか、思うことは、以前では、トレーンの演奏は独特のもので、いわゆる「トレーン節」というか、まったく彼独自のものであるかのように理解していて、前のブログにもそういうふうに書いたのだが、最近、そうでもないと思うようになった。これはどういうことかというと、そのフレーズには、パーカー、コールマン・ホーキンスというふうに遡れる(さかのぼれる)ようなイディオムが感じられるのだ。しかし実際には、爆発するようなタンギング、二オクターブ半というテナーサキソフォーンの音域内を瞬時に駆け巡るすさまじいほどのエネルギー、そしてまた、事前にまったく企図されない、無前提にして、独自なフレーズが創造されているのは間違いないのだが、その音楽がもっている語法は、ジャズの伝統に根付いたものであると、最近、ふとそう思う。


 実際に楽器演奏の経験のない読者にとっては、上記の表現、あるいは説明は大げさだと思われるかもしれない。だが、彼のフレーズを不完全だが少しでもなぞろうとして演奏すると、そのアイディアと演奏姿勢が理解できる。ジャズの演奏は、ヨーロッパのクラシック音楽とは、同じ楽器を使用しているにもかかわらず、まったく違うものだと思う。クラシック音楽では、作曲者があらかじめ慎重に音を選び、主旋律、副旋律、そして、それらから合理的に展開される旋律と和音が決定されていて、演奏者はそれを忠実に再現しなくてはならないのに対して、ジャズでは、孤々の楽器のリアリティから出発するように思われる。すなわち、例えばテナーサックスであれば、下のAから2オクターブ半上のFシャープまでの音を同列にとらえ、各音がもつ個性を、自らの発声器官の延長であるかのようにして、演奏者はそれらを鳴らそうとする。従って、一小節内で、二オクターブも瞬時に音が移動しても、それがそのソロの文脈上“必然”であるように聞こえるのであれば、ひとつのメロディとして成立するはずである。こうした表現上のテクニック、あるいは姿勢は、クラシック音楽にはないであろう。器楽演奏という点でいえば、ジャズもクラシックも手技を修練して、その成果を表現していることになるが、ジャズの即興演奏のほうが、ある意味で、多分に肉体的なところがあるのではないだろうか。というのも、ジャズ演奏家は、楽器自体のリアリティをベースにして、それをどうやればより美しく響かせることができるのか、そのことについて常に格闘しているように感じられるからだ。

ーーつづく