お父さん、お嫁に行くまで待っていて
  • 14Oct
    • 今後のブログについて

      父の救急入院後、アクセス数が驚くほど伸びて、読者の方が沢山増えて、ランキングもぐんぐん伸びて何が起きたの⁉︎何か炎上することでも書いた⁉︎とビビっております…(笑)父が亡くなってからも、その勢いは収まらず、何人もの初めましての方からメッセージやコメントをいただきました。最初にこのブログを始めた目的のひとつでもある「似た境遇の方の一助になれば…。」これが十分果たされたのではないかと思います。(途中でサボったりせず、他のブログさんみたいにもっとちゃんと書けば良かったな…と反省もしつつ 笑)このブログを書くことで、他のブログさんを拝見するきっかけにもなり父と同じように膵臓がんと闘う当事者の方、私と同じように闘病中の家族を支える方、それぞれの立場から、それぞれの苦悩や、しんどい中で見出していった喜びや希望を私自身も見せていただきました。中でも、同じ立場、境遇にいる者だからこそ、共感できることが多々あり他のブログさんを拝見することで助かったことは幾度となくありました。私と同じように、どなたかが私のブログを見てそんな思いを感じてくださったら幸いです。更に言うと、「こんの、クソジジイ!」と言いたくなるような気分屋で、扱いのめんどくさい父ですが意外とそんな父親が多いのかなあ、なんて思うようにもなりました(笑)そんな扱い辛いけど、愛すべきクソジジイを親に持つ子どもにとって分かち合える苦労や共感が私のブログにはあるのかもしれません(笑)父の闘病と看取りに関して「『死なないで』は無理なので、せめて私が後悔しないようにしよう」と植田さんに言われたことを心がけて動きましたが本当に良かったと思っています。反省点はたっぷりありますが(笑)、後悔していることはひとつもありません。(…あくまで現時点で、ですが…)父には抗がん剤治療はほとんど効果がないように思えましたが、それは結果論。アブラキサンとFOLFIRINOXの順番も散々考えましたが父の場合アブラキサンからできて良かったと思っています。(おかげで花見もクルージングもできましたし)もしかしたら、FOLFIRINOXはもう少し続けた方が良かったのかも…と母は言っていましたが、早めにTS-1に切り替えたことでTS-1が父に合わなかったことも分かったし(多分TS-1をしなかったらしなかったで、あれやっちょけば…!とかきっと思ったでしょう)「FOLFIRINOXに戻さん?」と先生に聞かれた時も父自身で「しない」という選択ができました。モルヒネと鎮静剤はもう少し早くしてあげられたらな…という思いはありますが父には申し訳ないけど、「これ以上は疎通が取れたとしても父にとってしんどいだけだ」と女3人揃って思えたのは後悔していないポイントだったと思います。(あれは本当に父さんの頑張りのおかげです)そして何より、介護休業を取って、ほんの僅かでしたが穏やかな時間を父と過ごせたこと。ちゃんと「父と過ごせた」「父を看取れた」と感じられた所以は確実にこれです。職場にはとっっってもワガママを言わせて貰ったので復帰したら馬車馬のように働く宣言してますが(笑)世間では取れるようになったとされている介護休業を、恐らくうちの職場では初の取得を実現できたことはソーシャルワーカーとしても、して良かったと思っています。これは我が家の場合、私にとって後悔がないという話なのでうちのやり方マネしてください!ってわけでは決してありません。ただ、「誰がって私が後悔しないように看取るんだ!」という心構えはとってもオススメです。自分が後悔しないように、もちろん本人の希望は置いていかず話し合って決めていければ…と思います。さてさて、長くなりましたが、今後のこのブログ、また父に関して書くことができれば書きに来たいと思います。(遺族の悲嘆の受け入れの経過とか、法事ごととか…。)また、私と彼氏(げんさん)の話を、父が病気になる前に書いていたブログがアメブロ内にあります。そこをリニューアルして始めていきたいなと思っていますので3人になった我が家のことや、父がいる間の結婚は叶わなかったけれど、その後の私とげんさんの話や父が登場する話や思い出話も書こうと思いますのでご興味のある方は覗きに来てやってください。(「三ッ星級スクランブルエッグ」です。)まだリニューアルして記事は全く書けておりませんが←こことは全く雰囲気の違うブログになっています。あちらはあちらで気に入っていただけて、皆さまともまたお会いできたらと思っております。最後まで読んでくださってありがとうございました。「お父さん、お嫁に行くまで待っていて」尚

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  • 13Oct
    • 余談 緩和ケア移行の間で

      TS-1中止が決まり、いよいよ抗がん剤の選択肢がなくなり、緩和ケアへの移行が決定した頃、彼氏がこんなことを言ってきました。彼氏「うちの母親が、お父さんが元気なうちに、きちんとご挨拶してきなさいって言いゆうがやけど、どう?」…はい、やっとこのブログのタイトルらしい内容です(笑)すぐに、両親に彼氏と彼氏のお母さんの申し出について話しました。彼氏のことは以前の記事に書きました(もう随分前ですね)が彼との結婚に足踏みしている試験結果が、資格学校によると恐らく合格しているのでは…?というとっても曖昧なものですが良い結果だと言われたそうてす。(蓋を開けて、あれ⁉︎って可能性も否定できませんが…)父が少しでも元気なうちに、このまま話を進めてはどうか、というのが彼や彼のご家族の思いだそうです。父としては、「娘を貰おうと言ってくれるのなら、話せるうちにご両親に挨拶をしておきたい。どんな親なのかくらいは顔を見せておきたい」という思いがあるそうでした。母は、彼と彼のご両親がそう言ってくれるのはありがたいと思う一方で父のことなので、自宅療養中では確実に無理をして、頑張ってもてなそうとしてしまう。かと言って、外出をするのは父の体力的に難しい。緩和ケア病棟に入院して、痛みの緩和が上手くできた頃に先方には申し訳ないが短時間だけ、ご挨拶の場を設けよう。ということで母と私と話がつきました。父には(父が無理をするから…というのは伝えず)緩和ケアで落ち着いてからにしよう、と伝え、父も了承してくれました。彼氏にも、父の状態と短いタイミングになるかもしれないが可能なら合せて欲しいとも伝えると、快く了承してくれました。ただ、それが実現することは、ブログをご覧の通り、叶いませんでした。20日に呼吸苦が起きなければ、もう少しだけ早く緩和ケアに繋がっていれば、母の反対を押し切って彼とご両親を招いていれば、色んなシチュエーションが浮かびますが、結局は叶わなかったことです。なるようにしてなったのだ、としか言いようがありません。父は私たち娘が嫁ぐ姿以前に、顔合わせすら出来ませんでした。ある意味、「お前らは俺が生きちゅう間は嫁に行くな!」という生前よく言っていた言葉の方が叶ってしまいました(笑)とは言え、こっそり叔母が教えてくれたのですが父は病気の影がない頃、妹である叔母には「尚が彼氏連れて来るって言うて、なぜか知らん、涙が出てきてにゃあ…」と言っていたそうです。それは、闘病中に、同じくがんと闘っている父の同級生にも話していたそうで叔母「きっと、尚が嫁に行ってしまう嫌な気持ちながやなくて、嬉しいと寂しいの涙やったがよ」とモルヒネと鎮静剤で眠る父の前で話してくれました。

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  • 12Oct
    • 10月2日 ③お帰り、父さん

      帰宅すると、伯母が電気をつけて待ってくれていました。葬儀場の人も祭壇を作りに来てくれていました。伯母が準備してくれた塩とお雑魚でお清めをし、「父さん、やっと帰れたで〜!お帰りー!」とお骨をリビングに運びました。母と妹が葬儀屋さんから祭壇の作り方を習っている間母方の伯母たちとお喋りをして過ごしました。伯母「尚、大変やったねぇ」私「本当よ、もう。疲れた〜」伯母「今日の挨拶、良かったよ。ちゃんとみんなに伝わったと思うで」伯母が涙目で言ってくれるので、私は必死に笑顔で話しました。私「そうやとえいけど。ありがとう。 けんど、おばちゃん!これがもう1回あるがで?…何十年かしたら…」伯母「それが順番ながやき、堪えちゃってや。おじいさんがこたえちゃあせんかねぇ…」父の父、私の祖父のことです。以前書いたかもしれませんが、祖父は95歳になりますが、元気です。祖父には最後の最後まで父のことは伝えられませんでした。気を利かせた叔母が「えっくん(父)、検査入院したと」と救急搬送された頃に祖父に話してくれたそうで父が亡くなったことを祖父に伝えると「悪かったがか…」と静かに言ったそうです。母は、祖父に会うなり「ごめんなさい」と泣いていました。祖父に伝えなかったのは父の意思でも、最大の親不孝をしてしまう父なりの気遣いでもあったことを私たちは知っていました。もちろん、母も同じだったでしょうが、それでも、祖父に対しては「ごめんなさい」しか私にも思い浮かびませんでした。父の棺を見て、そっとハンカチで目元を拭った祖父の後ろ姿を思い出しました。私「そうやね。父さんみたいなことだけはせられんね。」ああ、それでももうこんな思いするのは嫌やなあ。母さん、結構先でよろしく…(笑)伯父が来て、「これからは家族3人で頑張っていきなさい」と話しました。今日から、4人やけど、3人での暮らしが始まりました。

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  • 11Oct
    • 10月2日 ②火葬

      霊柩車にに付いて行かねば…!と車を出したのにあれ、みんなと進行方向逆やない⁉︎西の斎場に行くはずが、みんな東の方に…妹とあれ?あれ?言っているうちにも、車は進みます(笑)妹「ヤバくない⁉︎みんなでついて行かないかんとかやないが?」妹「あそこの娘、いきなり逆走して、父親が死んでショックでおかしくなったと思われん?」昨日の塞ぎ込んじょったのは何やったが?というくらい妹は笑顔で饒舌に話しました。そうか、この子は親戚付き合い苦手やったな。そこもストレスやったがやな、と思いました。信号待ちで、妹が「ねぇ、父さん今どこにおるがやろうね」と言いました。私が「え?天国か三途の川渡ったくらいやないが?」と言うと妹「そうやなくて、父さん、死んだらもう好きにするって言いよったやん?今頃どこおるろうって」私「あーね。うーん、アフリカにでもおるんやない?(適当)」妹「もうどこでも好きなとこ行けるがやもんね」私「どうせ、昨日も今日もあそこ(葬儀場)にはおらんかったがで。私らのこと見て、「おらがおらんのに何泣きゆうがな、あほうじゃにゃあ!」って絶対笑いゆうで(笑)」妹「そうかもね(笑)」そして、最後の最後までおマヌケ家族。斎場だと思っていた場所が全然違う場所だったり結局斎場に着いたものの、駐車場が広すぎてどこに停めたら良いか分からなかったり…あれこれしましたが、何とかすぐ父と母とは合流できました。小学1年の頃、祖父の葬儀で火葬場まで行ったことがありました。田舎の火葬場だったため、とても小さくて寂しい場所で母が棺の小窓から最後に祖父の顔を見て棺にすがりついて泣いていたのを見上げた記憶があります。この瞬間、こうして焼かれるのは祖父だけで世界でたった1人だけしかいないんだ。そんな気がしたのを覚えていて、火葬場はそんなもの悲しい場所な気がしていました。ところが。県庁所在地なだけでこんなにも違うものか。控え室から呼ばれて部屋を出ると、一面祖父の時に見た鉄の扉。無機質に、機械的に今も誰かが焼かれている。祖父の時に感じた悲しさとは全く違う悲しさがこみ上げてきました。父さん、こんなとこで焼かれるが?葬儀場で、父を見られるのは最後と確かに聞いていましたが何のためらいもなく、父の入った棺は扉の中に吸い込まれ、またまた何のためらいもなく、おじさんがスイッチを入れ、ツマミを回しました。あまりにも呆気なく、機械的な動きに、父があの中にいるとはなかなか考えが結びつきません。ただ、叔母が「あっけないねぇ…」と私の手を握った瞬間、ボロボロと涙が溢れてきて気持ちと頭がちぐはぐになっていることにも気付きました。父方も母方も遠方のため、近しい人以外帰れるように、と父の希望もあって、精進落としは折にしました。半分くらいの人とはここで別れました。ジュースを飲みながら、父を待ちました。やはり広い斎場。我が家以外にも火葬に来ている家庭がいくつかありました。「大ばあばだよ〜」と小さい子どもに壺を見せる母親やこれまた呆気なく「〇〇様〜」と火葬が終わったお知らせの放送があったりかつて祖父を見送った火葬場とは全く違っていて本当に火葬場?と聞きたくなるような風景にかなり戸惑いました。やがて、予定より少し早く我が家が呼ばれました。私も妹収骨は初めてで、母は「あんたら、グロテスクやけどびっくりしなよ」と小さな子どもに言うように私たちの耳元で話しました。あの、ズラっと並んだ扉のうちの、父の遺影がある扉が開きました。成人男性のものにしてはとても頼りない、私が思っていた骨とは違う形で「父の骨」が運ばれてきました。これ、父さん…?もう、この時には目の前に父がいるとはとても思えなくて呆けていました。いとこの子どもがきゃいきゃい騒いでいるのが、遠くの方で聞こえました。母に促され、父の骨を拾います。ふと、焼け焦げたステントを見つけました。父を助けるためのもの。少し動いて父を苦しめたもの。父が膵臓がんと闘った証拠。これがないと、抗がん剤治療もできなかった。ここでは骨しか持ち帰れないので、ただの鉄くずになってしまいます。いとこが横で「何これ?」と箸でステントを摘みましたが私も妹も母も説明しませんでした。それぞれが、何かを思っていたんだと思います。決して大柄ではありませんが、私より身体の大きかった父が、小さな壺に入って私が抱えて運べるようになってしまいました。「父さん、帰ろう」本当に壺の中身が父さんと認識できているかは別にして、父さんに「帰ろう」と声をかけてみました。母が後部座席で父を抱え、約2週間ぶりに父は家に帰りました。

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  • 10Oct
    • 10月2日 葬儀・出棺

      葬儀の日は更にバタバタしました。夜遅くまで起きていたのに、伯父・おばたちといとこは6時には起きていました。テレビを見ながら、伯父と叔母が話しているのを聞いていました。母が起きてきて、私は「父さん、どこ行ったがやろうね?」と言葉が喉元まであがってきました。ハッとして慌てて飲み込みましたが、何だか法事で親戚の所に来たけどじっとしていられない父は近所に散歩に出かけているというシチュエーションまで浮かんできていやいや、一体誰の葬式だよ、と自分にツッコミました…。伯父に相談しながら親族代表の挨拶文を考え、式が始まるまでベッドルームで覚えたりしていました。「ちゃんと読んでしいよ」と妹がやっと口を開きました。葬儀の時は、昨日とは逆転して私の方がずっと泣いていて(彼氏とお父さんが来てくれていて、ああ、こんな形で親同士合わせる形になってしまったなぁ…なんて思ったり)むしろ妹はケロッと(までは言いすぎかも)していました。私も私で、父が亡くなった実感なんてないのに、どうしてこんなに泣いてるんだろう…とも思いました。最後に棺に花を入れる時、父の顔をいつまでも3人で見ていました。写真の父の方がふっくらしていて、より記憶の中の父らしいのに、棺の中の父は痩せて、小さくなって、でも、幸せそうに笑っている私たちの知っている膵臓がんと闘った父でした。私は父にお花と、親族の爪や髪の毛を持たせました。出棺時、母は父と霊柩車に乗りました。スタッフさんの手で呆気なく、父の茶碗が割られました。破片が飛び散らないように、父の茶碗はラップでぐるぐる巻きにされていて何だか白けた気持ちになりました。そのまま、私と妹は親族と一緒に火葬場に向かうため、駐車場に移動しました。

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  • 09Oct
    • 10月1日 お通夜

      朝一番に納棺をしました。みんなでアルコール除菌をして父の体に触れている間昨日までベタベタ父に触ってしまって、マズかったかなあ…(笑)なんて思っていました。と同時に父の体に触るのに、除菌しないといけないことに、少し違和感も感じていました。買い出しに行ったついでに、ふと思い立って缶ビールを買いました。父がよく買っていた第3のビールではなく、ちゃんとアサヒスーパードライです。「父さん、やっと飲めるね。そっちでやと、ちゃんと美味しいがやない?」と供えました。うちの県では、通夜の後にちょっとした宴会をします。(全国でも有名な酒飲み県なので… 笑)父は生前「おらは死んで飲めんがやのに、みんながおらの話をして楽しく飲みゆうがあが気に食わん!」とは言っていましたが、県民性というか、しないわけにはいきません。(残念、父さん 笑)その料理や、葬儀の後の精進落としの手配等でバタバタし、気が付いたら親戚がわらわらと集まり、あっという間に通夜が始まりました。父の通夜なのに、現実感がなくて、写真だけ勝手に使われているようなそんな感じがして仕方がありませんでした。喪主の母が焼香をして、私と妹がそれに続きます。父に手を合わせて、振り返ろうとした時、妹がピクリとも動かず、私が腕を引いて気付きました。妹はボロボロになって泣いていました。それにつられたのか、私も泣きながら席に戻りました。席に戻っても妹は通夜の間中泣いていて、鞄からハンカチも出さずに泣く妹を見かねて、伯母が妹にハンカチを握らせました。通夜の後も伯母たちが妹の心配をしていました。妹は「疲れたき、あっち(控え室のベッドルーム)におってえいろ?」と一言だけ喋ったきり部屋に閉じこもりました。時折、母や私が声をかけましたが、いつ行っても同じ姿勢で、机に頭だけ乗せた状態でピクリともしませんでした。あまりにも妹が塞ぎ込んでいるので、叔母が一旦帰ってはどうかと勧めてくれました。私と妹とで一緒に帰り、シャワーだけ浴びてくることにしました。家までの車内でも、家でも、妹は終始無言でした。「(ひとり暮らしの)家に帰るかえ?」と聞くと、それは嫌だと言いました。葬儀場に戻ると、いとこが「ゆっくり顔が見られるのは今日で最後やき」と妹を棺の側に呼びましたが、妹は涙目で嫌がりました。気が付いたら妹はベッドルームで横になっていました。酔った伯父と、おばたち、いとこ、母と私とで父の思い出話をしたり談笑して過ごし、伯父が寝た頃にそれぞれ就寝しました。長い長い1日が終わりました。

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  • 08Oct
    • 9月30 ③父さんと寝る最後の日

      妹と私は一旦タクシーで帰宅し、荷物を取って近所の葬儀屋へ行きました。まさか泊まるようになるだなんて、知らなかったんですがテレビで見る物凄く高いリゾートホテルみたいでした。父は和室で布団に寝かせてもらい、ベッドルームも別にありましたが川の字になって4人で最後に寝ることにしました。台風が酷くなる中、通夜と葬儀の打ち合わせをして、台風が落ち着くのを待って、妹と母が泊まるための荷物を取りに行けたのは23時頃でした。私は妹と母が帰ってくるまでブログの記事を書きながら、父の横でゴロゴロしていました。頰に触れても、もうとっくに冷たくなっていて悲しい気持ちになりました。父に合わせてエアコンをつけるので、寒くて毛布を被ってスマホをつつきました。よそ様から見ると物凄く異様な光景なんだろうなぁとは思いましたし私は怖がりでご遺体の横でゴロゴロするなんて普段じゃありえないことです。(そりゃあ普段からご遺体と2人きりになることなんてないですが 笑)でも、父たがらか全く怖くもなかったですし、何ならよく喋りかけてました(笑)「父さん、冷やいがやけんど。あ、毛布出せばえいか…」「父さん、トイレ行ってくるきよ〜」とか(笑)よそ様からすると確実に危ない奴です(笑)うちの県だけでしょうか。普通、ご遺体と夜過ごす時は夜伽(よとぎ)と言って、誰か一晩中起きてご遺体が魔物に襲われないようについているそうです。が、遠慮なく家族4人で寝ました(笑)通夜の晩は親戚が泊まったので、これが父と寝る最後の晩になりました。

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    • 9月30日 ②病院とのお別れ

      看護師さんがしばらく4人だけにしてくれましたが女3人は泣きながら父に声をかけることしかできませんでした。私「ねぇ、父さん、あったかいよ」と冷たい指先から手を離して、肩を触りながら母と妹に声をかけました。微熱があったせいもあり、病衣の胸元から3人が手を入れます。母「本当やねぇ。お父さん、あったかいねぇ…」まだ柔らかい顔の皮膚に触れたり、腕とお腹の間に手を入れたりととにかく父の感触や温かさを忘れないように触れました。死後硬直が始まる前にエンゼルケアをお願いしないといけません。泣く泣く、看護師さんにバトンタッチしました。身体についたチューブ類を外す間、家族は外に出るよう言われました。この間に叔母や、母方の親戚、私の彼氏には父が亡くなったことを伝えました。外は台風のせいで強い風が吹いて、それでも日が射しているこれから酷くなるのが分かる天気でした。エンゼルケアを手伝うことを申し出ていたので、看護師さんに呼ばれ、私だけ病室に戻りました。看護師さんが「まずは口の中を綺麗にしますね」と言い、鼻から吸引しました。すると、昨日の吸引とは違い、血が大量に吸い込まれていきました。父さん、呼吸も辛かったんやろうなぁ…と吸い込まれる血液を見ながら思いました。蒸しタオルで父の顔を拭きました。目やにや喀痰吸引でついた血液を拭き取りました。妹と母も戻ってきて、看護師さんと4人がかりで父の身体を綺麗に拭きました。妹は父から離れて見ていましたが、母が促して拭いていました。病衣を脱がせて、持ってきた浴衣を着せました。この浴衣が温泉旅館のものみたいな柄で、私は嫌だったのですが母に「葬儀場で白装束になるき」とたしなめられました。看護師さんが父の手を組ませてくれました。色々なことがありすぎて、この後少しの間退席していたのか、私たちが気付かなかっただけなのか記憶が曖昧ですが、次に父の顔を見たのは仕上げの顔の化粧の時でした。父がとっても穏やかな顔で笑っているのです。それも、私たち家族すら滅多に見たこともないような顔で。看護師さんが目元のクマや耳たぶにファンデーションを塗り唇に薄く紅を引いて、血色が良く見えるように綺麗な顔にしてくれました。私「看護師さんが綺麗にしてくれたき、見ちゃって!」私が席を離れていた母と妹に声をかけました。母は「お父さん笑いゆう!」と感動していました。母「素直な人やなかったきね。こんな顔しても、次の瞬間には「何なや!」って言うような人やったきねぇ」私「ものすごく機嫌の良い時か、昼寝しゆ時はたまーにこんな顔になっちょったよ」母「そうやったかねぇ」私「病気してからはこんな顔随分見てなかったね。良かったね、父さん。」葬儀屋さんの迎えが来るまでの間、父に帰ることを伝えました。母「お父さん、30年も働いた病院とはお別れやきね。」私「お父さん、ここにはおられんで。地元に帰るがで」家には帰れないことは、まだFOLFIRINOXをしていた頃から伝えていました。父も、「死んでしまったら分からんなるがやきかまん」と話していました。ただ、家の近くにできた葬儀場ですることは決まっていたので父にとっても馴染みの道を通って葬儀場まで行くことになります。父が全然知らない所に連れて行くわけではないのでこれだけでも弔いになるんじゃないかと思います。迎えが来て、先生と看護師さんについて霊安室に向かいました。全部の病室の扉が閉まり、看護師さんがみんな頭を下げて見送ります。不謹慎ですが、「ドラクエのイベントみたいだなぁ」なんて思いながら歩きました。(父さんも、分かるろ?このネタ 笑)父を寝台車に乗せ、母が先生と看護師さんにお礼を言い、寝台車は台風の中を走って行きました。車の音が聞こえなくなるまで、先生も看護師さんも見送ってくれました。先生と看護師さんにお礼を言って、私と妹は大きな荷物を持ち、タクシーで自宅に帰りました。

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  • 07Oct
    • 9月30日 「もう、頑張らんでいいよ」

      布団に入ったものの、帰りがけの父の呼吸が気にかかり、夜中に何度も目覚め、今回父が入院して初めて眠れない夜を過ごしました。(それまでぐっすり眠れていたのも不思議なのですが)夜中や明け方に病院にいる母から呼び出される覚悟をしていましたが、結局そんなことはなく台風が来ることもあり、早めに起きて家を出る計画を妹と立てていたため普段起きる7時に母に電話をかけました。夜間の呼吸が帰りがけよりはましな(少しは深い)呼吸であること心拍が110くらいから90くらいに落ちたことそれ以外は変わりはないと母に言われ、一旦電話を切りました。10分ほどして、再び母から電話がありました。母「看護師さんが検温に来てくれて今血圧測ったら上が68なが。タクシーですぐ来なさい」きっと、今すぐどうにかなることはない。先生があらかじめ「50を切ったら覚悟して」と言ってくれていたのでそれを信じてタクシーを呼び、父の元へ飛んでいきました。病室に着くと、母が必死で父に呼びかけていました。「父さん、来たきね!チビもおるきね!」確かに心拍は落ち、血圧は低く、SpO2も95%ほどでした。それでも、父は昨日と変わらず呼吸をしてくれていました。ただ、呼吸の間隔が開いたり、突然心拍が160くらいに上がることがありました。そして、上の血圧は44になりました。ああ、これで最後になるんだ…何となくだけど、もうお別れなんだと確信しました。父の呼吸や心拍が弱まる度に母が肩を揺すって呼びかけました。もう酸素は2Lから5Lに増えていました。私「…母さん、父さんまだ頑張らないかんかな…もう、お疲れ様って言うちゃりたい…」循環器不全のため、冷たくなった父の左手を温めながら母に言いました。母「…そうやねぇ…子供らも来てくれたし、楽になるかね、お父さん?」3人が泣きながら父の体に触れます。「お父さん、もう、頑張らんでいいよ。十分頑張ってくれたね。みんな、知っちゅうきよ」何度も何度も声をかけました。もうしんどい思いはしないで良いよ、父さん。心拍のモニターはもうめちゃくちゃな数字が繰り返し出てきて、SpO2の不安定さにもモニターの警告音が何度も何度も鳴りました。8Lまで酸素を上げ、もう看護師さんはそれ以上は父の処置をやめました。(延命処置をしないのは本人と家族の希望でしたし)警告音が、ドラマで鳴るけたたましい音が何度鳴った頃だったか父がハッと目を開けました。虚ろな目でこちらを見ています。「お父さん!お父さん!」みんなが父を呼びます。もう、最後なのが分かって、見てくれたんやろうか。ゆっくりと薄目を開けるくらいに目を閉じて、ゆっくりとゴォーーっと音を立てて呼吸をし始めました。母「ああ、お父さん、最後の呼吸やね」暫くして、心拍のモニターが直線になりました。ドラマで鳴るピーーーという音はしませんでした。でも、父の心臓が止まったことは理解しました。心臓が止まった後も、弱く弱く呼吸をしていました。母「お父さん、まだ頑張ってくれゆうがやね。そんなに心配かね?…そりゃあ心配よねぇ3人でやってくきね」少しして、モニターの全ての波形が直線になった頃、B先生が見にきてくれました。胸の音、脈、瞳孔を確認して、「9月30日、9時55分です」と言いました。父さんの膵臓がんとの闘病生活が終わった瞬間でした。ちゃんと、看取れた。頑張ったね、父さん。最後まで頑張ってくれたね。モルヒネを使ってはいたものの、間違いなくしんどかったはずなのにその表情はとっても穏やかなものでした。

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  • 06Oct
    • 9月29日22時34分 父さんがいなくなるということ

      何だかんだ言って、父が「余命1年ない」と言われても父が抗がん剤でがんと闘っても医療用麻薬を使い始めてもモルヒネとミダゾラムで疎通が取れなくなってもどーーーーーーーうしても父がいなくなるという実感が一切わいてきませんでした。もちろん、家で4人で過ごす時間がもうないことは分かっています。食事をしたり、行こうねと約束していた居酒屋に行ったり、何なら彼氏にきちんと結婚の挨拶をさせることが出来るだなんてこれっっっっぽっちも思っていません。それでも、父さんがいなくなることと、そういうことが出来なくなることはどうしてもイコールにはならなくて。でも、今日の父の呼吸や波形を見て、いきなり父がいなくなることが本当にそう遠くない、数時間後、明日の明け方、明日台風が激しい時間、父が頑張ってくれたとしてももう数日、何なら今こうしてブログを書いている間に母から連絡が来るのではないか、とようやく危機感がわいてきました。だからと言って、今私たち娘が出来ることはただただ明日台風が強くなる前に病院に行くために自分たちの洗濯物を干すことしかありません。何なら、明日朝早めに父のところへ行くために早く寝ておくくらいしかありません。…母さんは今晩モニターとにらめっこして、眠れんのやろうな…。父さん、もうこれ以上頑張らせたくはないけどせめて、旅立つ時には見送らせてよ。いつもお風呂上がり(夜)に爪切ってたけどさ、いや、さっきも切ったんだけどさ、死に目には会わせてよ。今晩父さんが頑張れそうになくても、飛んでくきさ。どうか、それには間に合わせてよ。父がいなくなっても、私たちは今のところ今の家で過ごしていきます。父がいなくなっても、私たちはそのうち日常に戻ります。そこに、父の姿がもうなくても、もとの生活に戻るのでしょう。そんな当たり前のことが全くイメージできなくて、父のいない未来がきっと途方もなく広がっていて、下手したら、父さんのいない時間の方が、私の人生の割合で大きくて、そして、こんなライフイベントが母の分も待ち構えていて、もしかしたら、母のように、未来の旦那さんもこうして看取らなきゃいけない時が来てしまうかもしれなくて、今、とてつもなく怖くて怖くて仕方ありません。でも、ただ、あれやことやと要求は尽きないけど、やっぱり今祈っているのは、とりあえず、父さんが苦しくも痛くもなく、息を引き取れますように。神様、相変わらずの得手勝手信者で申し訳ないですが、これだけは、よろしくお願いします。

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  • 05Oct
    • 9月29日 叔母とのお喋り

      朝、家を出る前に母に電話をすると呼吸数が増えているが、浅い呼吸が続いているとのことでした。時折、深い呼吸をしては、止まって、暫く浅い呼吸が続いて…といった感じだったそうです。朝方、看護師さんが「酸素がいきすぎても、二酸化炭素が出せんなるといかんき…」と酸素を2Lから半分の1Lにしてくれたそうです。母と交代して、30分もしないうちに叔母夫婦が父の顔を見に来てくれました。また今回もお昼を持ってきてくれて、ありがたくいただきました。朝の検温では37.2℃だったそうで、クーリングをしてくれていました。叔母が父の手に触れると汗でしっとりとしていて、試しに測ると37.4℃でした。叔父は用事があったので早めに帰りましたが、叔母が今日は暫く私の話し相手に付き合ってくれました。父方の親戚の話、祖父のこと、叔母の近況や私の従兄弟のこと父の悪口(笑)や、私の話等沢山お喋りをしました。父の悪口を話す時は私が「父さん、今悪口言いゆうで!よう聞きよりよ!」と言ったり父がタイミングよく声を出すと、叔母が「言いたいことあるがあるやったら言うてみい!」と涙を拭きながら言いました。お腹の上に置いていた手が動いたり、目頭に涙が溜まっていたりときっと聴いてるな、と思うことがありました。もうまつ毛を触っても反応はないけれど、父の動きひとつひとつに反応してました。特に、涙に気が付いた時は丁度先生が来て父がいかに頑張って闘病したのかを叔母に話した後で先生が退室して、叔母が父の手を握り「手を握ってみいや」と声をかけているところでした。私「!…お父さん泣きゆうやいか!泣かんといてや、私も頑張って泣きやせんがやき!」と叔母と一緒に泣きました。父さんが頑張ったこと、私ら家族だけやなくて、先生もちゃんと知っちょったよ。無理して辛いとこ見せんとおったのも先生、ちゃんと気付いちょったよ。頑張ったよね、父さん。みんなみんな、分かってくれちゅうよ。喉がゼロゼロと痰が絡む音がしましたが、看護師さんが吸引してくれてもあまり変化はありませんでした。呼吸数も、まちまちですが、先生が酸素を2Lに戻して、1Lの時よりは深く息を吸えた波形に変わりました。その後、16時頃看護師さんが来てくれて、再度吸引するとスッキリ吸えたようで、ゼロゼロ言うことはなくなりました。ただ、呼吸がとても浅く、20回ほどの頻呼吸でした。モニターの波形で見ても、SpO2は97%以上はあったもののあまりしっかりと吸えている様子ではありませんでした。母が「明日も頑張ってっていうのは、酷かもしれんね…」と呟きました。検温を見て私と妹は帰ることにしました。熱は37.0℃まで下がりましたが、血圧が中々測れずに4度ほどやり直していました。一度、エラーで66/58と出て、上のあまりの低さに思わず声が出てしまいました。看護師さんが慌てて「いや、ちゃんと80では脈が触れてたので、80台はありますよ!」と言ってくれ、結局90台/60台だったと思います。(曖昧だけど、正常範囲でした)それでも帰り際、これで最後になるかも…と思い父の手を握りました。触れた右手があまりに冷たくて、温かい左手を握り直しました(笑)父さんの温かさを忘れないように。点滴でしか水分がとれていないのに、しっとりとした手の感触、浮腫んだ柔らかさを忘れないように。微かに、人差し指が動きました。書いてて思い出しましたが、子どもの頃、父と手を繋ぐ時は、父は普通に手を繋いでくれませんでした。人差し指を、子どもの私にはそれでも大きな人差し指を小さな私の手で握らせるスタイルが父と手を繋ぐ時の定番でした。しまったなぁ、あの時そう握っておけばよかった…今ふと思いました(笑)そんな人差し指が動いたことに感動して、普通に父の手を握りました。やはり、握り返してくれることはありませんでした。「お父さん、帰るきね。おやすみ。」そう言って、今夜は父と別れました。

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  • 04Oct
    • 9月28日 喜べない静けさ

      昨晩から少し心拍数と血圧が下がり、呼吸数が増えたそうですが、特に大きな変化はなく、父はずっと眠っていました。排尿も排便も、どちらも昨日1日出ていません。足も腫れてますますパンパンです。父に声をかけても、昨日ほど反応は良くありません。昨日は耳元で声をかけると目を開いたり、瞼を重たそうに動かしていましたが今日はそんな様子もありませんでした。ただ、今日の担当の看護師さんが耳元でかなり大きな声で呼んだ時はハッと目を開けて、ゆっくり閉じていました。うーん、でもさすがにあんなに大声で毎回喋ると周りの部屋に迷惑だしなぁ…(笑)でも、目やにが出ていたのを拭くと、瞼や眉毛が少し動きました。また、周りで話をしている時には、やはりタイミングよく声を出したり深い息をしたりしていて、聞こえているような感じでした。体位変換や、口腔ケア、喀痰吸引の時には「んんー!」と声を出していましたが息苦しかった頃に比べ、表情がくもることはありませんでした。「もう、しんどくないがよね?」と声をかけても、返事はやっぱり返ってきません。「先生来てくれたよ」と呼んでも、やはり寝たままです。先生が2人とも、「本当はもう少し薬減らして家族と話せるくらいにはしてあげたいんだけど…やっぱり本人にはしんどそうだったから。」と葛藤した思いを申し訳なさそうに言っていました。(B先生は「ごめんね」と私に言い、A先生は「僕らも辛いところがありました」と言ってくれました。)母にその話をすると、「そんな風に言うてくれるのは、ありがたいねぇ。先生も看護師さんも良くしてくれゆうのに、何の文句もない。」と言いました。私は「…ただ、お薬使うときはもっと早くして欲しかったよね…」と小声で言いました(笑)←母と妹が帰ってくる前に、父と長い間同僚としてこの病院で働いていた管理栄養士さんがお見舞いに来てくれました。(いつか書いたかもしれませんが、父は入院するまで、今いる病院で調理師として働いていました。)父が(冗談だったのか、本気で言ったのかは不明ですが)「8月までもたんかもしれん」と言っていたことや、独身時代は私の知る以上に大酒飲みだったこと管理栄養士さんとの思い出話をしてくれました。そして、最後に父に聞こえない所で「葬儀の時はお花くらいさせて。だから、その時は教えてね。現役と同じようなものやから」と言ってくれました。私たち家族より父との付き合いが長い方です。父のことを大事に思ってくれていることがとても伝わりました。先生2人とも、「バイタルは落ち着いてるから、急変がなければ今日明日…ということはないんじゃないか」と言ってくれました。A先生は「週末までもたんかと正直思っていたんですが、判断は難しいですけど、恐らく大丈夫だと思います。」と言いB先生は「胸水の色が気になるけど…色が薄くなってきたき…うーん、薄い方がえいなぁ。出血の原因って、がん自体が出血しゆうか、血液に何か異常が起きて、出血傾向になることもあるけどそっち(後者)やと内出血とか腸管出血とかがあるき、それではないでしょう。」と言っていました。父さん、お迎え来るまではもう少し頑張って。…正直、台風が来るまでは母さんが気が気じゃなくなるき、そっちが落ち着くまではぜひおって(笑)

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  • 03Oct
    • 9月27日 穏やかな寝顔

      昨日、一昨日のこともあり、また父が覚醒して苦しがって暴れてはいないかと気が気でなく朝一番に母に電話をしました。母は「うん、大丈夫。あれからもよく寝よったよ」と。一安心して、家事と支度をして病院へ向かいました。部屋に入ってまず気になったのは真っ赤な胸水。昨日も、ん…?えらい赤くないか…?と気になったのですが赤い、といっても水彩絵の具を水で薄めたような、そんな色でした。ただ、今日は血液っぽさが強くなってきて、市販の絵の具のような綺麗な赤ではなく他の色を混ぜたような、黒っぽい赤色でした。父に「お父さん、おはよう。来たよ」と声をかけますが昨日と違って反応がありません。昨日よりは規則的に、深い寝息をたてて眠っていました。表情は、口の乾燥防止のためにしたマスクで全体は見えませんが目元を見ただけで、苦痛を感じていないことが分かりました。「お父さん、もう苦しゅうないね」と話しかけました。もう自力で寝返りをうてない父に、母がクッションで体位変換をします。母が父に声をかけると、パッと目を開きました。少しうるさかった(突然動かされて具合が悪かった)のか、少し顔をしかめましたが昨日のように苦しさが持続している様子ではありませんでした。私たちの会話が聞こえているようで、時折タイミング良く声を出すことがありました。夜間父を看ていた母を連れて、妹が帰宅しました。B先生が来て、赤い胸水を気にしていました。「中身はがんの細胞なので、赤くなることはよくあるんですが…これが血だったら管の中で固まる可能性があって、そうしたら…どうしようかなぁ…ひとまず、今はコレに関しては処置はありません」と説明してくれました。その後、叔母が差し入れを持って来てくれました。叔母はやっぱり泣きながら、父に話しかけていました。「ああ見えてね、情が厚いとこがあって、たまにポロっと涙流すこともあったがよ」父が泣くのは、私たち娘が成人してからはごくたまーにありましたが基本的に人前で泣く人ではありません。今回の闘病中も、一度たりとも私たちに涙を見せたことなんかありませんでした。やはり、妹にだから見せる面もあるんですね。昼過ぎに私が職場に用事があったので、母と妹が戻る前に職場に向かいました。その間に、父に褥瘡ができないように、とエアーベッドに交換してくれていました。また、夕方に私が病室に戻ると医療ドラマでよく見る大きな心電図モニターが置かれていました。ああ、まさしく終末期だなぁ…と思って胸水を見ると容器が新しく交換してくれていて、今度は「赤い水」ではなく、「THE 血液」という感じの液体が管から容器に流れ込んで溜まっていました。再度見に来てくれたB先生も、止血剤を使おうか悩んでいたそうです。胸水を吸い出している管が詰まれば、父の肺がまた押し潰されてしまいます。そうすると、今度は精神的にではなく、物理的に呼吸が苦しくなります。ただ、安易に止血剤を使うと、今の出血箇所に血液中の止血をする細胞が集まりすぎて他の器官が出血した時に間に合わなくなるとどこかで聞いた、と母は話していました。また、今回の胸水の出血は、管が肺を傷つけて出血したというよりはがん細胞によって出血していると考えた方が自然なようで今後、他の臓器も同様のことが起こってもおかしくはないと考えた方が良さそうです。うん、だとしたら肺だけの問題ではなさそうです。妹と父と3人になった時、妹に私「こんな状態やのにさ、父さんがおらんなるなんてイメージできんでね…」妹「…うん」私「だって、こうやって息しゆうがやもんね」スースー眠る父を見ながら、祖母(父の母)がいつ迎えに来てくれるだろう、と思いました。

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  • 02Oct
    • 9月26日 「先生、お願い」②

      緩和ケアの先生が帰った後、落ち着いて入眠したのも束の間…。少ししてA先生が来てくれました。父は先生にか、私たちにか「約束が違うやないか!!」と怒鳴り、「先生、誰が俺の本当のことを知っちゅうが?誰が俺がこんなに辛い思いしゆのを知っちゅうが?誰っちゃあ信用ならん!!」と叫びました。先生はそれでも説明をします。先生「ベースになるモルヒネの量を上げました。レスキューも30分経てば再度押せるようになります」父「お前らの5分と、わしの30分がどんだけ違うと思うちゅうがな!!」先生「ご本人さん、状態としては本当にしんどいんだと思います。なので、鎮静は絶対にかけた方が良いと思います。本人さんも相当しんどいと思うんですが、ご家族さんが1番辛いと思います」父「1番辛いがは…!!」言いかけて、やめました。先生の退室後、私は仕事の用事があったため、一時的に帰宅することに…この後は母の記録からです。約1時間後の12時半過ぎに再度覚醒して、あまり長時間は暴れないものの、「何とかしてくれ!」と睨みました。少しウトウトした後、便意があるも、今の状態ではポータブルトイレへの移動も難しいため、オムツを着用しました。(ただ、しばらくすると「何かズボンがモコモコしゆぞ」と言い、オムツをしたことを覚えていない様子だったそうです。)呼吸苦の訴えがまたあり、レスキューを父本人に押してもらいます。その後も、先生が来る度に「楽にさせてくれ、眠らせてくれ、お願い」と懇願したそうです。ようやくその処置をしてもらえたのが16時前。せん妄に、と言われていたセレネースではなく、鎮静目的にミダゾラムが処方されました。ただ、その薬もしばらく効きませんでした。私が病室に戻った17時半頃には父は眠っていましたが、18時頃、母が良かれと思って体位変換をしていると父がハッと目を覚まし、「何で?」と叫びました。この、「何で?」が、「もう死ねるつもりでいたのに、何で目が覚めてしまったの?」に聞こえてとても辛かったです。その後、朝ほど暴れることはありませんでしたが足をバタつかせたり、身体の置き所がなさそうにくねらせたり、ウーウー、と唸ったりしながら時間をかけて入眠しました。夜中、また覚醒して暴れるんじゃないかと心配していましたが、それからは静かに眠れていたそうです。妹も母も泣いて泣いてとても参っているように見えました。私は、なぜだかすごく冷静で、父が暴れて苦しんでいるのを何だか、父じゃない人がそうやってしているような感覚に陥り、不思議と胸が痛みませんでした。むしろ、先生や看護師さんが来る度に自制がきちんとできている父に苛立ちを隠せず、「黙っちょけ!」と言われて以降、本当にほとんど父に話しかけませんでした。(意地を張って、というのとはまた違う感覚です)正直、卒論でも扱ったにもかかわらず、「がんで人が死ぬ」ということを全く分かっていなかったんだなあ、と痛感しました。がんでどうしてこんなに人が死んでいくんだろう、抗がん剤治療はとっても辛い(しかも副作用が)というイメージでただ、進行したら死ぬ病気で、漠然となりたくないなあ…なんて思う病気でした。がんの何が怖いって、こうして、身体を食い荒らして臓器不全になるように身体のあちこちに爆弾を仕掛けながら人間に確実に死の恐怖を与えつつ仕事や家庭内での立場、「その人」から「その人たらしめたもの」を奪っていく本人だけじゃなくて、家族や周りの、本人を必要としていた人たちをも確実に巻き込んで、繋がりや関係性を壊していく病気なんだなと。この怖さを、父ががんと闘って、がんに飲み込まれていく姿を見て初めて知りました。そうか、だからがんは怖いのか、と。

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    • 9月26日 「先生、お願い」

      病室に入ると父は静かに寝ていました。あ、夕べ大丈夫やったがかな、と思う間もなく母が「昨日の夕方の繰り返し」と言いました。昨日の22時半頃からずっと苦しむ→興奮して足をバタバタさせる→レスキュー押すも「嘘言うな!」と納得しない→薬が入ってウトウトを繰り返しているそう。9時頃にA先生とB先生が同時に来てくれたようで「先生、もう楽にしてください…」と先生を拝んでいたそう。昨日からの様子やその姿を見て、「鎮静もかけてあげた方が、ご本人楽かもしれません。検討して来ます」と話していたそうです。昨日と同様、母の姿が見えると興奮するので、父の視界の隅に席を移ってもらいました。「検討する」と先生が言ったきり、何の音沙汰もなく、覚醒する度に父が喚き、暴れました。父「またお前ら嘘やったがか!!」母「嘘やないよ、先生も来てくれたろう?」父「早よどうにかしてくれや!」私「お父さん、さっき先生来てくれちょったがやろう?」父「お前は黙っちょけ!!」おおう…久々に怒鳴られたわ(笑)腹立つくらい元気やないか…(笑)と思いつつ、11時半過ぎまで同状態が延々と続く…これは…結構滅入るなぁ…。「お前らで俺を騙してこのまま殺そうとしゆう」「俺が何のためにこんな苦しい思いしよったがな」「早く殺してくれ」「先生呼んで来い!いつまで待たすがな!!」しまいには、「おーい!おーい!何ちゃあ変わっちゃせんぞー!!」と部屋から叫びだす始末…。その間ずっと足をバタバタさせてベッド上で暴れます。ただ、ビビリな父、ルートを抜くなんてことはできません。頭の隅に、「これ以上暴れるなら身体拘束されるかも…」と浮かぶものの、恐らくルートや機材には触れないので、様子を見ていました。11時半過ぎにようやく緩和ケアチームの先生と看護師さんが来てくれました。「どうしましたか?」と穏やかに聞く先生に「どうしたもこうしたも…」とたじろぐ父。さっきまでワーワー言いよったのに。先生がルートをつついたり、モルヒネの機械をいじりながら父に話しかけ続けます。先生「今は苦しい?痛い?」父「苦しいし、痛い…もうわけが分からんなっちゅう。もうダメなが…」先生「今ね、もうしんどくないように、お薬の量を増やしました。でもね、何も感じんくらいお薬の量を増やすと、身体がちゃがまる(ここでは、死んでしまうの意味)きね。少しでも痛くないように調整していきますきね。」父「嫌…。先生、お願いします。お願いします。死なしてください」先生「痛くないようにするがよ?ちゃがまったら困るろう?」父「嫌、痛い…嫌」先生「痛いがは嫌でしょう?」父「死なしてください」先生「…死にたいの?ちゃがまりたいの?」父「うん。お願いします。お願いします…」うわ言のように、それでも先生が来るまでに私たちに言っていたことを必死にぶつけます。手を合わせ、必死に先生に拝みます。母がティッシュの箱をおもむろに掴んで、どこかに持って行きました。何だろう?と思っていると、妹が静かに泣いていました。

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    • 9月25日 ②モルヒネ開始

      母と妹が到着してすぐに、A先生が来てくれました。モルヒネ開始の指示。モルヒネをすると、精神的なものが原因でなければ呼吸苦は改善されるそうです。ただ、先生は精神的なものが原因だと思っていること、本人の希望でモルヒネを開始すること、最低量から始めるものの、モルヒネや鎮静剤を使うことで呼吸抑制があることも説明されました。調整してくれるものの、量によれば父と会話はできなくなります。妹と母に、父がお別れを言い始めました。とても、穏やかな時間でした。母が突然「お父さん、今まで生きてきて1番嬉しかったことは何?」と聞きました。普段はそんなこと、絶対真面目に答えない父ですが「ぜんぶ」と、目を見開いて答えました。私にはもうこの時点で胸がいっぱいだったんですが母は適当に言われたと感じたのか「全部って…(笑)」と笑いました。すると、父はこちら(私と妹の方)を見て「おまえらが、産まれてきたこと」と言いました。もう、たまらなくなって、「そんなん1度も言うたことないくせに!」と私は父の足を叩きました。あの顔は、絶対、一生忘れないと決めました。やがて、父の意識が痛みに向き始め、苦しみ始めたのに、モルヒネ一向に来ず…。待って待ってしている時に、やっと現れたのはおっとりした緩和ケアチーム(多職種連携のチームなので、してもらうことは同じですが、転院予定の緩和ケアの病院とはまた別の意味です)の看護師さん。「大丈夫ですか?」とおっとりと聞かれ、呑気にスクリーニングなんて始めるので、その場にいた全員がイライラMAXだったと思います(笑)看護師さんの退室後、結局先生が指示をして2〜3時間後に最低量でモルヒネが開始されました。疲れていたせいか、よく眠り、目が覚めると少し辛そうにしながらも水分摂取やトイレもできる状態で、泣いてお別れするほどでもなかったな、と思いました。突然、「書くものがほしい」と父が言うので、母がティッシュの箱とメモとボールペンを渡しました。うつらうつらしながら書くものだから、きちんと書けているのかまして本当に書きたいものがあるのかも定かじゃありません。あまり気にせず女3人で過ごしていました。父が顔をしかめて手を振るのに気づき、ティッシュの箱(結局紙には書けなかった)を受け取りました。読めない…(笑)私がポツリと「お父さん、これは読めんぜ…?(小声)」と言いましたが、よーく見ると…左下から、「モるひね」に見えました。また、右上が「8m」に見え、「お父さん、モルヒネは8mもないよ(笑)」とふざけて言ってみました。母も「もるひねの?よ?」と頑張って見るも分からず。すると、妹が「がんばるね、じゃない?」と言いました。私が8mと読んだ右上が「が」真下に下りて「る」と「ね」の間に「ん」再生紙マークの真上に「ば」が見えました。…すげぇ、チビ…気がつくとチビが泣いていました。母が「子供らが頑張ってくれるき、頑張れるがよね?お父さん」と泣きながら言うと父は目を開けて頷きました。母「家のこともようやってくれゆうがよ。こんなにしっかりしちゅうとは思わんかった」と父に話しかけます。これが、父と穏やかに話す最後の会話になりました。

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  • 01Oct
    • 9月25日 「殺してくれ」

      朝、病室に入ると少しやつれた母とやはり苦しそうな父がいました。0時過ぎからまた苦しみ始め、ベッド上をのたうち回り、少し落ち着いてウトウトするも眠ることで呼吸数が落ち、苦しくなってハッと飛び起きて、のたうち回り…の繰り返しだったそうです。ほとんど2人とも眠れていないそうです。ロキソニンやオキノームでごまかしながら過ごしましたが、やはり呼吸苦改善されず。もう父自身も、痛いのか苦しいのかよく分からなくなってきたそうでした。母が父の口座を閉めるため、妹と早々に病室を出ました。手続きが終わった旨のLINEを妹から貰ってしばらく経った頃、父が飛び起きました。私を見つけるやいなや「お父さん、もういかんきね。声も出んなった」と突然言いました。いや、昨日普通に喋りよったき、声が出んがやなくて、父さんがわざと出してないがやと思うけど…なんて思っていると、元気な時に真面目な話をしていた時と同じ、静かなトーンで話し始めました。父「妹(叔母)が一昨日来てくれちょったけど、もう、知らなぁ。」父が、ふいに右手を差し出しました。座り直したいのかと思い、私は手を取りました。父「殺してくれ」私の目を真っ直ぐに見て、はっきりと言いました。それは、せん妄や意識混濁を感じさせない、明らかに意識がクリアな父でした。私「それはできんよ。」なるべく落ち着いて返します。父「モルヒネしてくれ。先生を呼んでくれ」これはもう誤魔化せない。そう思った瞬間、私は父の右手を握りながらぐちゃぐちゃに泣いてしまいました。泣きたくなかった。父さんがいるうちは父さんの前では泣かない、と初めて入院した時に決めたのに。泣く私を無視して、父は何度も「先生に頼め」と言いました。私「せめて、母さんとチビに会うて。私だけじゃ決めれん」父「そしたら早よ呼んでくれ!」だんだん父が興奮してきました。先生や看護師を呼べ!と散々喚き始めました。妹にLINEで事情を説明して母と病院に向かってもらいました。2人が到着するまでに、叔母も呼ぶよう言われたものの、何とかそれは阻止成功。(状況がどう転ぶかも一切分からなかったので)ただ、これはもう父の一時的な感情ではないことだけは分かりました。

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    • 9月24日 やっぱり呼吸苦が続く

      結局、夜間も22時半にオキノーム20mg、3時と朝7時半にも服用したそうです。痛みというより、呼吸苦でレスキューを使うそうなんですが、20mgに増やした割に効果が見られない…。呼吸数が10回を切る状態のため、当直の先生に母が相談すると、オキノームに呼吸抑制の副作用があるそうでそれを疑い、10mgに減量することになりました。結局、この日は減量したオキノームを1度飲んだだけで、呼吸苦はあるものの、痛がることはほとんどありませんでした。また、何だか母がいる時を見計らっているのでは…?という疑惑も出てきました(笑)朝方、苦しくて足をバタつかせたりと、軽く暴れていたそうです。が、娘2人が来るとそこまで暴れず、何なら娘2人だけになると比較的落ち着いて過ごせるんです。私たち娘の前では「お父さん」をしているのかもしれません。後、母が笑っていたのは、父がウトウトしている時に看護師さんが2人組で来室し、対応している間ベテラン看護師さんの声は無視するのに、若い看護師さんの声にはきちんと反応するのです(笑)母「どうよ、腹が立つねぇ(笑)」そんな父ですが、しんどさはやはりあるようで、今日は昼間に父の従兄弟夫婦が来てくれました。またこれも呼吸苦が激しい時だったので、タイミングが悪かったんですがやはり、誰が来てくれているのかすぐには分かっていない様子でした。しばらく時間をかけて理解して、話せる時に話をしてそれ以外は昨日と同様、うつらうつらしていました。帰り際にはまた握手をして別れていました。奥さんも体が悪いようで、「お互い頑張ってお正月に地元で会おうね」と決して叶うはずのない約束を、父も笑顔で受けていました。その光景に胸が痛んで仕方なかったです。それから、また夕方まで眠り、夕方に目覚めてはまた息苦しさにジタバタしていました。呼吸数は少ないのに、SpO2はやはり安定しています。先生は恐らくせん妄の要素が強い、と判断していて、必要があれば向精神薬も使うと説明がありました。

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    • 9月23日 オキノームを増やす

      緊急入院から4日目。仕事を休んでいるとは言え、朝から夕方まで父につきっきりで、夜に帰る生活にだんだん疲れが出てきました。ただ、私と妹がその状態なら、間違いなく母はもっと疲れていると思いました。明け方、呼吸苦が顕著になるようで、4時頃から苦しさで起きてしまうそうです。9時にA先生が見に来てくれた時、オキノームを20mgに増やすことになりました。どうもオキノームとロキソニンが分からなくなるようで看護師さんが持ってきてくれた昼薬(定時のロキソニン)を隠そうとしました。私「お父さん、これ飲まんと痛くなるがで?」父「今はしんどうないき置いちょいて」私「違うって、痛い時のは緑のオキノーム!これは6時間に1回のロキソニンやき、切れたら痛くなるがで」父「やき、そこに置いちょけと!」私「だって、看護師さんがもう出してくれたき!私の手の上でしっけるで!」軽くバトルになりつつ、飲ませ、落ち着く…かと思えば父「飲んだって看護師さんに報告して来い」私「え?なんで?これはオキノームと違って言わんでかまんがよ?」(そもそもオキノームは看護師さんの目の前で飲むんやけど)父「えいから、言うて来い!!」前日、母が同じことを父に言われ、一応看護師さんに報告すると言わなくても大丈夫と言われたそうで、ただでさえ昼休みで人手が少ない中の、昼薬のチェックに忙しい時間帯。父のこだわりに付き合わせるわけにはいきません。父の頼み方にイラッとしたので、少し部屋の外へ出て、20秒ほどして部屋に戻りました(笑)夕方、父方の叔母夫婦が来てくれました。父が丁度オキノームを飲むか、1時間後のロキソニンを飲むかで悩んでいる時だったのでタイミングが悪く、ベッドの上に座ってうなだれているところでした。調子も機嫌も良い時なら楽しいお喋りが出来るのに、よりによって一番しんどい所を見せてしまいました。私「お父さん、おばちゃん来てくれたよ」父「…」座り込んでただただ深呼吸をする父を見て、空気を読んで叔母はすぐに帰ろうとしましたが父「待ってくれ」と2人を止めました。止めたものの、そのまま横になり、目をつぶってうつらうつらし始めました。父さん、分かっちゅう…?私が再度「父さん、おばちゃんとおんちゃん(おじちゃん)来てくれちゅうが、分かっちゅう?」と声をかけると父「分かっちゅうけんど、言いたいことがあったのに、よう思い出せん…」と言いました。10分ほどして、おばちゃんが「しんどいところにおったら余計しんどうさせるき、帰るわ。また来るきよ」と父に声をかけました。そして、父は2人が来ているのを今知ったような顔をして父「おう…ありがとう…後は頼んだぞ…」叔母「頼まれることもないけんどよぉ…(涙声)」父「(おじの名前)さんも、ありがとう。後はお願いね。」と父は両手で2人と握手をしました。結局、父は何が言いたかったのだろう。おんちゃんは「言いたいこと、思い出したら書いちょって」と言ってくれたけど多分、それを思い出すことはないだろうな…と思いました。後日、叔母は「あれはたんに『ありがとう。後はお願いね』って言いたかったがやろう」と言っていました。もしそうなら、父はちゃんと伝えられていたので良かったなと思いました。結局、20mgに増えたオキノームを11時頃と15時頃に服用しました。夕薬を飲む時には意識がはっきりしないせいで飲み込みが悪く感じ、誤嚥が怖いなと思いました。叔母夫婦が来た時、あんなにボーッとしていたのもやはりオキノームが増えたからかもしれません。

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  • 30Sep
    • 9月22日 続く息苦しさ

      朝、私と妹が病室へ入ると、昨日のような不穏さはないものの、苦悶様表情。息もゼーゼーと苦しそうにしていました。(でもSpO2はやっぱり99%)母が帰ることで不安なんでしょうか?この日、初めて私もトイレ介助をしました。母がいる間に1度介助を見ていたのですが、何だか私の時は様子が違う…トイレットペーパーとティッシュの使い分けができず、私が「こっちを使うて!」とトイレットペーパーを差し出しても怒りだす。便になるとそもそも部屋に入れてくれない。私「終わったら呼んでよ!」と部屋のカーテンの外に出ますが物音がして覗くと勝手にベッドに戻っている!!フェントステープも増えたんやし、フラフラしゆからお願いやき呼んでくれ!!!また、妹を見て「アンタ誰で?」と。あんたが猫可愛がりしよった下の娘よね!!!!とは言わず、妹にマスクを外して、明日からコンタクトで来るように伝えました。母が帰って暫くはゼーゼーと呼吸苦訴えるも、そのうちウトウトし始め、昼間は2〜3時間ほどがっつりと眠りました。息苦しさでハッと目覚め、落ち着いた頃にようやく空腹を訴えて、「りんごをくれ」とひと口大に切ったりんごを食べてもらいました。今日は母が夕方に来るのを知っているからか、不穏さなく過ごせました。そして、夕食を妹がつまんで、美味しい美味しいと言っているのを見てようやく父が給食に手をつけました。里芋の煮物を半切れ、きゅうりの酢の物を3口ほど。上手にタイミングを見て勧めると水分もとってくれました。痛みの訴えも、オキノームが欲しいとも言わなかったので、この日はレスキューなしで過ごせました。ただ、お腹は腹水でパンパンに、足はむくみでクリームパンみたいになっていました。先生は食事が摂れていない低栄養状態でもなると言っていたものの、循環器不全になっていないかが心配でした。

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