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頭にきたのでこのページを作りました

4章 機能するチームとは 「人間の原理」


チームの機能について語られるが、案の定、論理展開が追跡できない叙述が散見される。


チームを編成するために価値観の合う人を見極めるにはという話題で、それは


「直感によるところも大きい。単純に言えば、話していて「そうそう、そうなんだよね」と心から共感でき、阿吽の呼吸で話が進んでいくよう

な人は価値観の合っている人と言える」(p.160)


と語る一方で、ふんばろう東日本から離脱したメンバーには情け容赦ない非難と罵詈雑言を浴びせていた報告もあったわけだから、複雑な心境となる。


もう一つ、「グーグル社の20%ルール」というキーワードを著者は語る。マネジメントの文脈で著者は、グーグル社に「20%の時間を自分の好きな時間に費やせる」というルールがあることを延々と紹介し、その限界やらを議論する(169)。だが、著者に欠けている視点は、抑もふんばろう東日本に集っていた多くの支援者は、自分たちの20%の余裕時間を使って本業ではない支援活動をしていたはずという事である。著者は、釈迦に説法を延々とし、その手のひらの上で飛び続けていたわけである。


他の支援団体、ボランティアとふんばろう東日本との関係についても、なぜかこの章で言及が為されている。


「かくいう私[西條]も、自分から他のボランティア団体を批判したことこそ一度もないが、他の団体からいわれのない非難をされたことがあり」(191) 


「そもそもボランティアは競争ではない。他の団体と比較したり、他の団体の価値を下げて自分(たち)の価値を高めるといったことに意味はな

い。」(192)


と語りながら、自団体の受賞記録はしっかりと書き記しているので何をか言わんやである。


総括:被災者へ向ける意識の欠如


本書を通読して不思議に思うことは、支援実績をどれだけ著者が熱く語っても、「被災者」の視点で語られることが全くない点であった。自分の組織をいかに立ち上げ、いかに宣伝し、いかに維持してマネージするかだけが語られ、組織の外部にいたはずの「被災者」は完全に本書では他者同然に扱われている。本書の最大の難点であろう。


それもこれも、物資支援をはじめとする支援活動の根底に、どうしても首肯できないその場しのぎの「取り繕い」が横たわっているように見えるのである。前述したように、支援物資を手渡す際に公平性が保証できない場面で、著者は次のようにすれば良いと言ってのける。


「事前に告知せずにゲリラ的に配布していくことにで行列ができないようにしよう。」


「それでも足りなかった時のために、代替の生活物資を用意しておこう。」


「これは行政からの配布ではないので貰えるのが当たり前ではない。そのことをわかってもらえるよう、あらかじめアナウンスするなど、苦情が出ない工夫をしよう」(188189)


こんな意識のボランティアが来たら、現場では必ずや総スカンを食らうはずである。著者のこのような意識の中には被災者の側に立つ視点は全く欠けている。こんな中途半端な支援ならば、何もない方がよほどましである。長時間列に並んだ末にここでお終いと言われ、黙っていろと説教された被災者の側の尊厳を何だと思っているのであろうか。この一節には正直、怒るしかなかった。


最後に、本書に思想的文脈での記述は本当に必要だったのか?これは評者の問いかけである。


著者はボランティア同士の対立やら諍いの元を、随所で構造構成主義の「信念対立」という言葉に落し込んで説明しているが、まずは「自分自身の言説や信念を疑うべし」、という格律には目を向けないようなのである。本当に構造構成主義が本文に必要なのであろうか。なぜ無理をしてまで、すべてをそれで説明しようとするのか。そもそも、本来ならば論説をもっと展開して欲しいはずの組織論の概説があまりにも簡単すぎて、何がどのように従来の組織論と違っているのかも全く見当が付かなかった。


※「本質リーディング」との関連性


本書評の第一稿を書いた時点では、著者による下記の記事は未読であった。ここで言及されている「本質リーディング」に著者は入れ込んでいるらしいことを知ったことで、この書評で述べ来たった疑問の多くは氷解したことを付記しておく。著者と評者は、全く異なる世界観を持っていただけであった。




http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20150331/441261/?P=5&rt=nocnt