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頭にきたのでこのページを作りました

それでは、著者はどのようなリーダーを理想として掲げるのか。



著者によると、自分のことを知らなければリーダーはつとまらない。自分と傾向の似た人を集めてチーム編成しろ。状況と目的を踏まえ、他者の意見を交えてリーダーシップを発揮しろ、と恐らく誰が考えても同じになるような結論を述べている。(73) 挙げ句の果てに、


「リーダーが誠実でないことにより、・・・・誠実なスタッフは次々と辞めていき、不誠実なスタッフばかり残る。彼らは組織の内部でも不誠実な行動をするようになり、不誠実な組織文化が醸成され、社会に対しても不誠実に振る舞うようになる」(83)とまで語る。鏡に向かって語っているのではないかと思わされる文言であろう。


それではどうやって良いチームを作るのか?(この問題設定自身が陳腐と言えば陳腐の極みか。) 著者が語る「良いチームの作り方」とは。「テクニックは必要ない。なぜなら、関心が似ている人は、同じものを良い(悪い)と思うため、同じ「良い」と思ったところに自然に集まってきてしまうのだ。」(91) どうやらこの一文が「叡智」のようである。


本文中、深刻な問題発言も見られたので、それを指摘しておかねばならない。




心理学者としての著者としては、あまりにも軽率な発言ではないかと思わざるを得ない。人の見かけに関する話題に言及しているのだが、



「顔に現れる表情や痕跡だけとってみても、極端な話、顔中に様々な種類の傷のある人は、原因はともあれ、そういう人生を歩んできたということである。」「笑い皺の多い人はたくさん笑ってきた人である。眉間の皺が深い人は、どこか厳しく考え詰めるところがあり、険しい人生を送ってきた可能性が高い・・・部下や家族のことを大事に思い、組織の発展に尽力してきた人は、目に温かさと知性が宿っていると感じるものだ。」(8485)


これはもはや、たちの悪い人相占いでしかあるまい。こんなバカげたことを堂々と述べる著者の言う「リーダー」とは、聞いて呆れてしまう。これは人権への配慮を欠いた表現であり、人間の尊厳を蔑ろにする叙述である。著者の猛省、並びに出版社の善処を切に求めたいところである。


第3章 ブレないチーム運営 「方法の原理」



ここでは著者の持論に基づく方法の原理が開陳される。全体的に、構造構成主義のことばかりが記されていて、参考文献も殆どその分野からのものである。他の思想との比較が全く無いのは、実にカルト的様相を呈している。


さて、その「構造構成主義とは「方法とは何か」「価値とは何か」「人間とは何か」といった根本的な問いに答える理論の体系なのだ」(105)と語られているのであるが、その直後に「どんな状況、目的においても機能する「絶対に正しい方法」はないのだ」(107)と記される。すなわち、構造構成主義も絶対的に正しい方法ではないと我々は判定せざるを得ない矛盾に直面する。このような揚げ足取りにも似た批判をしっかり受け止められないと、学問的な叙述として本書の立論は成立しないと思う。そもそも、本書の叙述だけを読んでも、()で前述したことと同様にこの主義の体系を作っているであろう諸概念の定義を読み取ることは難しい。



著者の構造構成主義が言う「方法の原理」(状況と目的に応じて有効な手段をとる)は、我々が普通に使っている「臨機応変」と何が違うのか?自分には結局その違いが分からないし、本書からは読み取れなかった。しかも著者は構造構成主義のことしか語らないので、一体全体、他の思想体系や心理学の諸説と何がどう異なって、どこがどんな理由で正しいかの判断基準も全く得られなかった。端的に説明の体裁を為していないのである。くどいようだが換言されている著書からの引用は次のようなものもあった。



「方法の原理とは、次のようなものであった。方法とは「特定の状況において、何らかの目的を達成するための手段」である。つまり、方法の有効性は、状況と目的によって変化する。」(118)


これが「原理」なのであろうか。やはりただの「臨機応変」だろうとの意を強くする。この著者が言うところの「方法の原理」を用いた支援活動とは次のように語られる。


「未曾有の震災下で既存の物資支援の方法や枠組みの多くが機能しなかったのは、…それまで有効だった方法が、状況が変わったことにより有効ではなくなったからだ。それに対して、「ふんばろう」が機能したのは、常に状況と目的に応じて有効な方法を考え出すための"方法の原理"を共有し、それを指針に実践したからにほかならない。」(107) 


だが、その後のどこをどう読んでも、自分には被災地への物資支援が成功した理由として、偶然の賜物、運が良かったこと以外の状況を見つけられない。 支援が必要な支援者を見いだす方法としても著者は、


「地元メディアや全国的に大々的に告知を載せた。そして、それを見た被災者に罹災証明書のコピーと希望の家電を書いて送ってもらい、支援が必要と判断された家に直接希望家電を送る方法を採った。」(213)


と記すが、これこそまさに個人情報の漏洩をそのままやってのけたわけである。また、一体誰が運送費を負担するのか?という現実の問題に対しても、このプロジェクトを進めていた当時、流通業界に格安での運搬依頼の打診をしたが結局思うようにいかず、自分たちで運ばざるを得なくなった。これがさらに現場の支援者にしわ寄せが行く一因となったことは石巻市での例からも想像されよう。著者は得々とこれを成功体験として語っているが、実態はこんなものであった。


「5%の失敗なら許容範囲」という不思議な考え方も、著者がしばしば使ってきた言い回しである。これはふんばろう東日本が支援活動を進めるときに、内部の目標として完璧主義よりは、ある程度の過失をも良しとして進めていた方針のことで「5%」という言い方には厳密な意味はない。きわめていい加減な発想の支援活動のコンセプトである。具体的には、

「「ふんばろう」は、被災者支援が目的である以上、5%以内の失敗やミスを気にしていたら何もできなくなるから、その範囲のものは気にしないでいこう。」(115)


と本書で語られている。この台詞は著者の前著(『人を助けるすんごい仕組み』ダイヤモンド社)にも出されており、初出ではない。被災地支援の文脈からはどうにも理解不能で、独善的な著者の発想を端的に示す文言であったが、またもや新刊でもこれが披露されている。


ふんばろう東日本の支援形式は、フェースブック等に集った支援者がコミュニケーションを住める中でそれぞれ興味のある個別プロジェクトに参加し、展開していくもの。例えば「家電プロジェクト」「ミシンプロジェクト」etc. このやり方を進めていく際に、何度か現地とトラブルを起こしていたことは既に紹介したが、一連の批判に対して建設的議論のためと称して「代案を出せ」というのが著者の論調(132頁)なのだが、著者の意識の中には「何もしないこと」を代案として認める余地は無いと判断せざるを得ない。時として、「何もしないこと」が最善の支援になることすらある。



別の観点から、著者の支援活動に対する認識の甘さに由来する問題点が、無意識のうちに本書では書かれている。「避難者数より少ない支援物資を配るべきか否か?」という東日本大震災の折にあちこちで起きた問題を巡る発現を取り出してみよう。


「東日本大震災後、被災地では人数分に満たないという理由で、500人いる避難所に300枚の布団が届いたが配らない…といった事態が各所で起きた。」(125頁)


という課題に対して、著者が与える「方法の原理」を用いた解答例は次のようなものである。


「今の状況では全員に同時に配るという公平主義に縛られていたら誰にも配れません。行政の目的は、市民をサポートして生活の質を上げることですから、公平主義に基づく前例は、目的を達成する方法になりません。市民に納得してもらえることが大事なのですから、この際、一人一枚じゃなくても、家族で分けあってもらったり、お年寄りや子どもを優先するといったように工夫して配ったほうがよいのではないでしょうか。むしろ、必要としている人に配れる方法があるのに、それを実行しなければ、そのほうが責任問題になると思います」(129頁)



と著者は避難所の担当者に言うらしいのである。いかにも優等生的な、仮想現実のみを相手にしている言い草であろう。そもそも、そのような危機的状況になったとしたら、真っ先に配付の優先順位は現場で決める。それが様々な事情でできないから現場は機能不全に陥っている。例えば、限界集落の老人が大半を占める避難所で、著者の言い分は通るであろうか?


結局、著者の言う方法の原理を適用する場面はどこにあるのであろうか。そのような疑問ばかり残る第3章であった。(続)