日露戦争 (中公新書) : 古屋 哲夫(1966年)
ド根性スラブ人同士の紛争が長引いて、
支援国家が音を上げて国内政治が混乱している昨今、
あの日露戦争はどうやって終結したのか気になり、
改めてじっくりと読みなおして一番印象に残ったのは、
死体の山を築いて奪い取った203高地の戦いでもなく、
ロシアのバルチック艦隊をボコした日本海海戦でもなく、
開戦に至るまでの日露の首脳たちの喧々諤々の交渉と、
停戦に至るまでの日露の首脳たちのしたたかな外交策です。
お互いに国益と国威を懸けて要求を出し合い駆け引きを行い、
その打開策の一つとして武力を用いた「戦争」があり、
戦場での状況を材料に交渉を繰り返して停戦に持ち込む。
戦争とは外交の一手段にすぎないというのが納得できます。
そして、この日露戦争後、日本とロシアは手を取り合い、
アメリカの大陸進出に対抗するというどんでん返しが起きるのです。
日露戦争は朝鮮半島を支配したい日本と、
中国(当時は清)の満州地方を支配したいロシアが、
占領地で隣接する互いの存在を危険視して始まった戦争ですが、
結局日本が戦争に勝利して満州の南半分の利権を手に入れます。
<日清戦争以来10年にわたる対立を日露戦争によって清算した両国は、
今度はすぐさま手を結びあう仲になった。
停戦・撤兵の3か月後には第一次日露協約が調印された。
両国が満州の利権を二分・・・
日露は満州における既得権者として対等の地位に立った>
日露協約の必要を主張したのは韓国統監の地位に就いた伊藤博文です。
彼は1909年にロシアの管轄である満州のハルビンを訪れた際、
日韓併合を恨んだ安重根によって暗殺されましたが、その2か月後、
<アメリカ政府は清国の領土保全と機会均等主義を実現するため、
満州すべての鉄道を清国の所有として、
関係列国の共同経営にする案を持ち出してきた。
これは満州の植民地化をはかっている日本とロシアを脅かすものであった。
日露両国は協議のうえでこの提案を拒否し不成立に追い込んでいく>
<翌年第2回日露協約が調印され・・・
満州の植民地化は日本とロシアだけの話し合いで進め他国の介入を許さない>
<満州開放を約束して日露戦争に対する米英の支持を得た日本は、
その敵であったロシアと結んで、
かつての支持者と対立するところまで急速な転身を示した>
ロシア兵が日本兵に焼き栗を拾わせて二人で分け合いました。
戦後のアメリカは仲間外れにするとお怒りになるので、
やはり日米中ロの北太平洋条約機構があるといいです。
欧州局長が北方墓参再開をロシア側に申し入れ 侵攻後、初の訪問で
(ロシア出禁の首相は早くやめさせましょう)