戦後日本人が失ったもの」というサブタイトルに魅かれました。

 

我々の死者と未来の他者 戦後日本人が失ったもの 

(インターナショナル新書)| 大澤 真幸  より

 

映画監督の伊丹万作は・・・「戦争責任者の問題」で次のように書いている。

多くの人が今度の戦争でだまされていたと語っており、・・・

「だまされていた」は、もちろん自分が戦争を推進するイデオロギー

(今から振り返れば誤っていたイデオロギー)を

容認していたことに対する言い訳である>

 

<伊丹はこう書く。

だまされていたと言って平気でいられる国民なら、

おそらく今後も何度でもだまされるだろう」

のみならず今正しいと信じていることでも、後から振り返れば、

だまされていたと言いたくなるような誤りであるかもしれない>

 

 

 

現在でもすでに別の嘘によってだまされ始めているに違いない。

だまされていたということで免罪されるならば、

人はいくらでも安易に様々な思想や理念にコミットするだろう。

そして何度もだまされるだろう>

 

日本人は、もともとが他者の善意を信じる国民なのです。

それが性悪説が基準の現代社会にさらされると、

政府にだまされ報道にだまされ通訳にだまされ、

ホストの優しい言葉にだまされ息子になりすました若者にだまされる。

だまされる人は被害者だ、としか考えないので、ずっとだまされます

 

 

 

太宰治は日本近代文学の分類では「無頼派」という枠に入れられている。

「無頼派」とは、太平洋戦争後それまでの近代文学全般に対して

強い批判意識を抱いた一群の作家たちを指している。

だが「無頼派」の中で太宰だけが重要な一点において違っていた。

太宰だけ戦後の追い風を利用して書いたものがない

戦前・戦中には思いつかず、

戦後の時代思潮の中で初めて感じるようになった文章、

あるいは戦前・戦中には書くことができず、

戦後だから書けたとみなされる文章、こうしたものが太宰には全くない

 

 

 

戦争中の作家たちは、

日本の戦争がうさん臭いものであることをわかっていました。

何か根本的におかしな部分があると思いつつも、

否定的に書くだけの自信や勇気がなかった・・・

つまり消極的に戦争を許容していた、その分が戦後補われたのです。

戦争が愚行であったこと、理念や大義がくだらないものだったことが、

疑いようもなく明らかになったからです(本文を要約しました)

 

 

 

太宰だって、戦後、「戦中に戦争を馬鹿にしていた

ということを示す小説を書けたはずだ。だが彼は書かなかった。

戦争に関して戦中に書けなかったことは、

戦後に至ってもあえて「書かない」ことを選んだのである>

 

戦後という好条件を追い風にして書くことを、

太宰は、よしとしなかったのです。

 

 

 

画像は朝霞市を流れる黒目川沿いの桜並木と菜の花畑です。

(太宰治の話に「川」の画像を使う神経をお許しください)