インパールの戦い ほんとうに「愚戦」だったのか

 (文春新書 1322) | 笠井 亮平

 

第二次大戦中、

ミャンマー(ビルマ)から山岳地帯を超えてインパールに向かい、

インドを支配しているイギリス軍撃退を目指した日本軍は、

「補給線の伸びきったところで叩く」イギリス軍の狙い通り、

武器や食料が欠乏、作戦を中止せざるを得ませんでした。

その退却の道はジャングルの激しい豪雨と疫病の蔓延で、

兵士の死体が積み重なる「白骨街道」と呼ばれました。

 

 

インパール 作戦 退却 に対する画像結果

 

作戦を強行した牟田口司令官ばかりが非難されがちですが、

南アジアの歴史を研究しておられる笠井亮平教授は、

インパールの戦いを記したイギリス側の文献を調べ、

あちらでは「グレイテスト・バトル」と呼ばれていることに注目、

たくさんの「忘れられた」記録を掘り起こしています。

「無謀で愚かな作戦だった」と切り捨てることこそが「愚か」

 

 

激戦地 コヒマ に対する画像結果

 

中でも今の日本社会に通じるものがあると思ったのが、

「ビルマ戦線 初の日本人俘虜」というお話。

 

熾烈な戦いの中、

英国インド軍が一歩先を行くことに成功した要因の一つが、

日本軍の俘虜から重要な情報を収集したことです。

当時の日本軍兵士は「生きて虜囚の辱めを受けず」といわれ、

俘虜になるくらいなら自決せよとたたきこまれていました。

 

 

 

それでも中には負傷して自決もできずに捕まる場合もあります。

ビルマで最初の俘虜となった石崎二等兵も射殺を望みますが

医者を派遣されブランデーをふるまわるほどの扱いを受けました。

イギリス兵の人道主義からではなく情報収集のためです。

石崎二等兵だけではなくその後俘虜となった日本兵は、

ほとんどが情報の提供に大変協力的だったそうです。

 

戦いを指揮してきたエヴァンス師団長は、

「彼らは俘虜になることを想定していなかったのだろう」

「秘密保持のための訓練が全く施されていなかった」

と分析しています(エヴァンス著「インパール」)

 

 

イギリス インパール に対する画像結果

 

これ、今の日本にも通じるものがありますね。

学校では交通事故に遭わない教育ばかりで、

実際に遭ったらどうするかがわからない。

感染症においても、検査重視で感染拡大防止に注力、

実際に感染した人のケアがおろそかになってしまう。

 

最後にイギリス軍司令官スリム中将の言葉をご紹介します。

 

「日本軍の強さは上級指導部にあるのではなく、

個々の日本兵の精神にある。・・・

いかなる状況下でも日本軍は手ごわい存在であり続けた」

 

戦後「武力を持たない」憲法を押し付けられたのはこれか!

著者自身も「目からウロコ」だったお話が満載の一冊です。

 

 

 

(花の画像以外はネットからお借りしました)