第二次大戦中、
ミャンマー(ビルマ)から山岳地帯を超えてインパールに向かい、
インドを支配しているイギリス軍撃退を目指した日本軍は、
「補給線の伸びきったところで叩く」イギリス軍の狙い通り、
武器や食料が欠乏、作戦を中止せざるを得ませんでした。
その退却の道はジャングルの激しい豪雨と疫病の蔓延で、
兵士の死体が積み重なる「白骨街道」と呼ばれました。
作戦を強行した牟田口司令官ばかりが非難されがちですが、
南アジアの歴史を研究しておられる笠井亮平教授は、
インパールの戦いを記したイギリス側の文献を調べ、
あちらでは「グレイテスト・バトル」と呼ばれていることに注目、
たくさんの「忘れられた」記録を掘り起こしています。
「無謀で愚かな作戦だった」と切り捨てることこそが「愚か」
中でも今の日本社会に通じるものがあると思ったのが、
「ビルマ戦線 初の日本人俘虜」というお話。
熾烈な戦いの中、
英国インド軍が一歩先を行くことに成功した要因の一つが、
日本軍の俘虜から重要な情報を収集したことです。
当時の日本軍兵士は「生きて虜囚の辱めを受けず」といわれ、
俘虜になるくらいなら自決せよとたたきこまれていました。
それでも中には負傷して自決もできずに捕まる場合もあります。
ビルマで最初の俘虜となった石崎二等兵も射殺を望みますが
医者を派遣されブランデーをふるまわるほどの扱いを受けました。
イギリス兵の人道主義からではなく情報収集のためです。
石崎二等兵だけではなくその後俘虜となった日本兵は、
ほとんどが情報の提供に大変協力的だったそうです。
戦いを指揮してきたエヴァンス師団長は、
「彼らは俘虜になることを想定していなかったのだろう」
「秘密保持のための訓練が全く施されていなかった」
と分析しています(エヴァンス著「インパール」)
これ、今の日本にも通じるものがありますね。
学校では交通事故に遭わない教育ばかりで、
実際に遭ったらどうするかがわからない。
感染症においても、検査重視で感染拡大防止に注力、
実際に感染した人のケアがおろそかになってしまう。
最後にイギリス軍司令官スリム中将の言葉をご紹介します。
「日本軍の強さは上級指導部にあるのではなく、
個々の日本兵の精神にある。・・・
いかなる状況下でも日本軍は手ごわい存在であり続けた」
戦後「武力を持たない」憲法を押し付けられたのはこれか!
著者自身も「目からウロコ」だったお話が満載の一冊です。
(花の画像以外はネットからお借りしました)