「私は貝になりたい」というドラマがありましたね。

戦時中の収容所で捕虜を虐待したとして裁かれた

実在の男性の言葉をもとに創られたドラマです。

「貝になった男」は上坂冬子氏の著書で、

新潟の直江津にあった捕虜収容所が舞台です。

 

 

和中 光次(わなか みつじ) on Twitter:  "昭和18年のクリスマスイブ、直江津捕虜収容所でのコンサートの写真。衛生兵のタスキをかけた人物が青木勇次衛生曹長。その左に二代目所長の太田成実中尉、右に捕虜代表のチズルム豪陸軍大尉、右下に昭和23年11月6日に処刑された  ...

 

「ここで働いていた日本人の中から

8人もの人たちが戦争犯罪人として絞首刑に処された」

 

「8人の部下が絞首刑になったというのに

収容所長は終身刑で、12年の獄中生活を送った後、

無事に家族の元に戻っている。

(責任者の)所長は・・・なぜ生き長らえることができたのか

 

日本人たちの罪を決定したのは元捕虜たちの証言でした。

上坂氏は直江津に住む、処刑された男性のご遺族から、

「所長さんは真面目なふりをして、

捕虜代表の大尉に見込まれて助かったという人もいる」

という証言を得ます。

 

 

 

この所長が亡くなった翌年、地元の高校に、

オーストラリアの元捕虜から手紙と本が届きます。

「収容所で死んだ60人のオーストラリア兵をしのぶためと、

直江津や近郊の多くの方々が捕虜にお寄せ下さった

御親切へのお礼を含めて・・・」とありました。

 

上坂氏はオーストラリアに暮らしている元捕虜たちを訪ね

当時の収容所での出来事を詳しく聞くことになりました。

その席で、彼らが虐待だと思っていたことの一部が、

文化や風土のちがいからくる誤解であったことも判明しました。

 

 

 

所長の人柄について「いい人だった」と口をそろえる彼ら。

上坂氏が、

所長は赴任中、ほとんど何もせずに所長室にこもっていた

いい悪いというよりも音のない存在だったのではないか? 

と尋ねると、元捕虜は大きくうなずいてこう言いました。

 

『あの時代に音のない存在であることが、

どんなに強い意志を必要とするか、

あなたにはわかりませんか』

 

 

 

「国を挙げ世を上げ、打って一丸となっている時

音もなくそこから外れている存在

捕虜の側から見ればどれほど救いであったことか

 

「『進め 一億 火の玉だ』と号令がかかっていた中で

少なくとも所長と所長室は燃えなかった。

この様子を『強い意志』と受け取った捕虜の目も

また確かというべきであろう」

 

 

 

「あの状況下で何もしないということは、

大変なエネルギーを要することだった」

 

今の日本において首長は何もするなとは言わないけれど、

声をあげて存在感をアピールすることが仕事ではない、

とつくづく思う次第です。

頼むからコロナ患者用の病床増やしてブタ

 

 

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上坂氏はこの捕虜たちとの会談の後、

同国のニューサウェルズにあった日本人捕虜収容所を訪ねます。

昭和19年の8月、1,100人の日本人が集団脱走を企て

321人が死傷した「カウラ事件」が起きました。