坂   道   第18話

 

 二週間、会議室においての新人研修を受けた後、信子たち新入社員は多くが希望する部署に配属となった。大学で英文学を専攻した彼女は国際雑誌の編集部門に配属されたが、これは大きな計算違いだった。英語を学んだ人間なら当然要求される英文タイプやスムーズな英会話の能力を、彼女は大学生活においてほとんど身につけていなかったのである。

 留学やセカンドスクールなどで様々な技能を磨いた同期生の中で、信子はゆとりのない毎日を送っていた。何をしても人の三倍は時間がかかるのだ。

 だが有難いことに、そんな彼女に意地悪く当たる上司も社員もおらず、皆温かく見守ってくれた。先輩社員は、「がんばってね」といいながら紙コップのコーヒーを奢ってくれ、「女子でもいろんな仕事をさせてもらえるから、やりがいがあるよ」と口々に励ましてくれた。

 信子は仕事を覚え技術を上げることに夢中だった。

 何しろ残業残業の毎日で、これまでどおり障害者の介護を続けることは、体力的にも時間的にも無理だった。自分の日常に障害者がいないという状態に後ろめたさを感じながらも、彼女には実際に彼らを顧みる余裕はなかった。

 それでも三ヶ月も経つと、要領も覚えタイプを打つのも楽になり、同期生に誘われて仕事の後で食事に行ったり映画を見たりという、働く女性が普通に経験する娯楽にも目を向けられるようになった。

 だが、時間にゆとりができたから介護活動に戻りましょうという方向には、彼女の意識は向かわなかった。彼女は新しい世界で自分が向上し磨かれていくことに、これまでにないほどの、不思議な心地よさを覚えていたのである。

 そして、範夫が負傷したというニュースから二年近くが経った、初夏の休日のことだった。

 信子がガスコンロにフライパンをのせて、夕食の焼きそばでも作ろうかと準備を始めたとき、部屋のドアを誰かがコツコツとノックした。

「どちら様ですか?」

 いぶかしげに尋ねる彼女の耳に、

「田中です」

 という懐かしい声が聞こえた。信子は大慌てでドアを開けた。そこには紛れもなく愛しい範夫が・・・。

 座っていた。車椅子に乗って。

 状況を飲み込めず呆然と見つめる彼女を、範夫は、

「お久しぶり」

 とぎこちない笑顔を浮かべて見上げた。

 

(つづく)