坂   道   第17話



 範夫が出発してから三ヶ月ほどたった頃、ケニアの山中でバスが転落する事故があり、乗っていた日本人の青年ら数名が負傷したというニュースが報道された。その負傷者名の中に『タナカノリオ』の名まえを発見して、信子は居ても立ってもいられない気持ちだった。

 だが、範夫の親族と付き合いのない彼女には確認するすべもなく、同一人物に違いないだろうという確信だけは抱いた。もしも範夫が無事ならば、人違いでよかったです、ですむことだし、本当に負傷していたならば、覚悟をしておく必要があったからである。

 だが、ともかく命だけは助かったのだろうと、彼女はひとまず胸を撫で下ろした。その後彼がどうなったのか、日本に戻ったのかどうかも判然としないまま、年が明け、桜の花が咲き、信子は就職活動の年を迎えた。

 年度が変わっても、範夫からは何の連絡もなかった。

 彼女は東京で就職先を探すつもりだった。実家がある地方都市では、四年制大学を出た女性など、生意気で扱いにくい単なる年増だとして、就職先からは敬遠されていたのである。 

 たとえそうでなくても、信子には東京を離れる気持ちはない。

 いつか必ず範夫は戻ってくる。怪我が治ったら彼は必ず自分を訪ねてくる。その時のために、自分はここを去るわけにはいかないのだ。

 信子は、自身にそう誓っていた。

 リクルートスーツを着込み、介護活動では全く縁のなかった踵の高いパンプスを履いて、彼女は都心の出版社を訪問した。当時は、自宅通勤ではない女子大生には門戸が狭いというのが、就職活動においての常識であったが、幸いにもその出版社は女子も男子なみに仕事を与えてもらえる、非常にやりがいのある職場であった。但し週休二日ではないし、残業や休日出勤は当たり前という、厳しい労働条件つきだったが。

 秋の一次試験、面接、そして年明けの二次試験を通過して、出版社への就職が内定した。大学の卒業試験の準備にも追われ、範夫の消息は依然として不明なまま、信子は社会人一年生として、大都会のアスファルトの歩道を勇ましく踏み鳴らして闊歩する毎日を歩みはじめた。

 範夫との連絡が途絶えてから、二度目の桜の季節を迎えていた。


 (つづく)