この記事は2018年5月9日の出来事デース(^_-)-☆

 

長崎バス観光(株)の定期観光バスのツアー「長崎よかとこコース」もファイナルとなり、後は長崎駅に戻るだけ...ん、20分ほどあるナァ~...ココを降りると確か...だよね、行きましょう~♪

 

到着したのはバス集合まで残り15分、無謀なのか、いけるのか...あ、今度は準備中ッてえ事はクローズタイム...ダメなのか...たしかコノ階段上って左側...あー開いてた(^0_0^)V

 

    

 

1892(明治32)年創業、長崎の歴史を担う老舗の一つといえば「四海楼」さんデース、そして長崎入りした昨日、ゴールデンウィーク明けだったせいか、不定休が基本のコチラは休日でした。なので今回はあきらめていたのですが『ちゃんぽんミュージアム』、行って来マース♪

 

いや、嬉しいナァ~、まさかココで見れるとは。実は最後のコースかなり駆け足だったのですが、何をそんなに急ぐんだ女房殿と思っていたら「ほら、今なら間に合うよ」と尻を蹴っ飛ばしてくれたのデス。持つべきものは女房殿ですナァ~、ありがとう<(_ _)>

 

     

 

創業者、陳平順氏で「ちゃんぽん」「皿ウドン」の生みの親といわれておりマス...あ、時間がないから急いで見たら終わっちゃった...でもね、入館無料だし、そんなに広いわけではないので...さて、時間までしっかりと拝見しましょうかネェ~(^_-)-☆

 

     

 

福建省の福清県から「見知らぬ地に行って成功してやる」と夢見て19歳の青年はコウモリ傘一本を持って長崎の地に降り立った...へぇ~、「包丁一本...」じゃなくて「コウモリ傘、い~ぃっぽん」なんだ...え、なんでコウモリ傘...あ、なるほど、当時のコウモリ傘は言わば西洋の象徴で一般人が気軽に持てないほどの高級品、いわゆるステイタスを象徴する一つだったんですネェ~...要するに手軽に持ち運び出来て身分がしっかりしてマス的な象徴だったのかナァ、というのは長崎に上陸する事が結構大変だったそうで、その証明と身元引受してくれる方が必要で、そのお土産だったのかも知れませんネ。というわけで、身元保証をしてくれたのが同郷出身で貿易事業をしており、親戚筋だった張氏にお願いしたそうだ。そして張家は五人兄弟で五隆号といわれており、益隆号にお世話になった。そして大成功を夢見る青年はそこで信用をつけ、当時は三刀の仕事(料理が包丁、床屋が剃刀、洋服が鋏)に就くのが常識だったが、“まずはお金を作る!”事を目的としていたので資金を借りて反物の行商を始めた。休む日も無く重いリヤカーを引いて、時には島原の方まで出向いての行商を7年間。そしてついに、1899(明治32)年に中華菜館兼旅館をオープンしたのデス!! ちなみに創業地は廣馬場自治会の会所と駐車場になっているトコだと思いマス。元々は唐人屋敷内で広東会館所有を借り受けて、後に払い下げられたそうデース(^0_0^)V

 

     

 

「ちゃんぽん」や「皿うどん」の生みの親といわれている四海楼創業者、陳平順氏。福建省の福清といえば現在の日本在住中国人で一番多いといわれる出身地...あ、そういえばワタクシが日本中国料理の歴史を調べるキッカケで現在もコノ方をベースに調べているのですが、新橋亭の創業者である呉宝祺氏も出身でした!...なんか関連...あ、時期が違うやネェ、まぁコノ議題は宿題としましょう<(_ _)>

 

     

  

さて、中国料理を専門に扱うワタクシのもう一つの疑題はチャプスイとはなんだろうとか、五目アンカケのアンと煎して両面を焼いた炒麺や揚げた炸麺との相関デス。チャプスイ、わかりマスか?、ハッポーサイ、八宝菜、全家福、什碎などといわれてますネ。「山・海(河)・空・陸・地の恵みをまとめあげた料理」ですが、チャプスイ・ハッポーサイですが、実は清国末期は国がグチャグチャになっており、また何代も世代が変わり覇者たる満州民族は漢民族化していって守られていなかったようですが、満州民族の食のタブーがありまして、海や川のモノと地のモノは組み合わせますが、陸のモノとは組み合わせしない。空のモノと山のモノや地のモノを組み合わせても陸のモノや海や川のモノとは組み合わせないという戒律。山は山菜やキノコ、海(河)は魚介海鮮、空は鳥、陸は豚牛羊など、地は野菜類、となるので魚と豚や鳥と海老などの組み合わせはダメだったのデス。それがチャプスイはそれらをまとめあげて表現する料理。これまでの決まり事が崩壊し。これまでに無い発想で生まれた料理、ちなみにちゃんぽんや皿うどんのアンはチャプスイといえマス。チャンポンは今でいうトンコツのタンメンで、皿うどんは五目あんかけカタヤキソバですからネェ、それをなんでウドンと呼ぶのか?...と、検索してたら凄いコラムを発見、そしてワタクシの知識と照らし合わせても、うなずかざるを得ない情報を得る事が出来ました。それは「カタ焼きそばアメリカ発祥説」デス!!

 

     

 

「ちゃんぽん」の作り方を超簡単に説明しますと、肉や海鮮、野菜を炒めてスープ投入で麺を加えて煮込んで出来上がり、まさに山海地の料理を満喫する逸品デス。スープは鶏と豚を使用、海鮮や野菜の出汁が融合、そして麺自体もちゃんぽん用の特別使用なんですヨォ~♪ 唐灰汁(トウアク)ご存じですカァ~? 通常は小麦を練る際に鹹水ですが、ちゃんぽんの麺は唐灰汁を使用しマス。中国料理の麺作りに使用されていたようで、本土では天然の混合炭酸塩を水に溶かして使用していたそうで、現在では科学的に実証されて炭酸ナトリウムや炭酸カリウムを混合して作りマス...なんか違うなと思っていたけど素材から違っていたんですネェ~、それが独特の食感や風味に影響しているのデース、ちなみに名前の由来は「ご飯食べましたか」という中国語「吃飯」で福建語読みだとシャボン又はセッポンとなり、これは挨拶みたいなモノで大阪人の「儲かりまっか」のような感じの挨拶。これが転じて「ちゃんぽん」になったそうだ。そして、いろんな酒の種類を飲んだらチャンポンというような使われ方もされるようになったそうだ(#^^#)V

  

     

  

では「皿うどん」はというと、先ほどの料理方法でスープを控えめにして、あらかじめ炒めておいた麺を加えて汁が無くなる位まで煮込んだモノ。そしてチャンポンはドンブリだが、スープが無いので皿で提供したので、皿支那ウドンが皿うどんとなった...ん?...あれ、揚げた細麺にアンカケじゃないの...あ、四海楼さんの説明では違うようデス。それは「チャーメン(炒麺)」だそうで、現在でも四海楼では皿うどんとチャーメンはちゃんと区別して提供されているようデス...時間の都合上食べれなかったのが残念デス、今度ね、唐人屋敷やカステラ神社など宿題はいっぱいあるのでまた来マス、が、さて出ましたネ「炒麺」。現代では炸麺と呼ばれてるけど、カタ焼きそばですがアメリカ発祥説!!

 

これには当然歴史が関係する。アヘン戦争での敗戦などから欧米各国が清国に押し寄せ、自国に見切りをつけた人々は他国での成功を夢見て1840年後半からアメリカへの移民が始まり、奴隷解放宣言などで肉体労働者需要が増えて1870年代後半にはサンフランシスコで6万人を超えたそうだ。そういったアメリカに行った中国人達だが、当然他国での相互協力、そしてコミュニティが生まれる。これがチャイナタウンで働いている中国人向けのレストランも登場する。中には元々料理人でない人達もいるし、そうなると量があって安くて中国料理っぽいモノも出てくる。目の前にある食材を見よう見まねで何でも炒めたり煮たり...どーやらコレがアメリカンチャイニーズの発祥といわれているようだ。アメリカ人とは違う生活スタイル、増え続ける中国移民は社会問題となり、ついに1882年(明治15年)に中国人排斥法を発令。コレによって中国移民の方々はアメリカを追われる事となる...そして留まる人、混乱する中国に帰国する人、他国で活路を見出す人、知人縁者と連絡をとって行き先を決める...長崎に来た人も当然いるでしょう。なぜならば四海楼のオープンした写真には「AMERICAN RESTAURANT」の文字がしっかりと入っているのデス!!!

 

    

解りマス? 左側の拡大した方の真ん中「SHIKAI-RO」SHIKAI-ROの下!確かに「AMERICAN RESTAURANT」となっています♪

 

この情報は「焼きそば名店深訪録」というサイトをされているシステムエンジニアの方で、趣味がツーリング、好きな焼きそばについての食べ歩きをまとめておられて、その中の「【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(6/7)」で見つけました。その前後も読ませていただいたんですが、非常に興味深く面白い情報が満載でした。塩崎さん、ありがとうございました、これからも拝見させていただきマース(^_-)-☆

★ 焼きそば名店深訪録 【コラム】長崎皿うどんの歴史的考察(6/7)

   https://yakitan.info/archives/saraudon-history-6

    ※ 超有名なブロガーさんなんですネェ~♪ 

      https://mecicolle.gnavi.co.jp/curator/yakitan/

 

そうそう、ビックリしたのは「銀座アスター」さんの話も出ている事デス、「昭和元年創業、チャプスイレストラン」。戒律を破っての新しい料理となったアメリカン・チャイニーズを代表するチャプスイがアメリカで大人気。新しい料理、注目の料理は模倣の対象となる、そして権威付け。チャプスイといえば1869年にニューヨークを当時清国を代表する政治家が世界一周旅行の際に訪れた時のエピソードが出てくる。アメリカの食事が合わなかったので、お抱えコックに今ある材料で作らせた料理が美味しくて、後日アメリカ側を接待した時にその料理を提供した事から広まったとか、アメリカ側の接待で出てきた料理にチャプスイが入っており、李氏が大絶賛したとかいう話である。が、実際は李氏がアメリカでチャプスイを食べたという記録は無いようで、どうやらアメリカにいた中国移民のレストランで祖国の英雄が来た事をうまく宣伝に使ったようデス。そして「銀座アスター」の創業者である矢崎彦七氏は浅野財閥系の東洋汽船で貿易の仕事をしており、20代で海外の仕事で重要なポストに就いていたのでチャプスイを知っていた。独立心旺盛な矢崎氏はその後東洋汽船を辞めて乳製品、特にバターを手掛ける会社を設立し成功していたが、関東大震災で業務縮小となるが、たまたま銀座の土地を所有していた事から飲食事業を思い立ち、銀座アスターをオープンさせた。フォークとナイフで食べさせる「アメリカン・チャイニーズ チャプスイレストラン・銀座アスター」誕生、創業時の料理長は横浜南京町(現横浜中華街)から招聘、その人物は創業時の張家聘珍楼で料理長をしていた張汝深氏で、その後奥様が店を立ち上げたが銀座アスター退社後はそこで鍋を振っていた、その店の名は海員閣デース♪...って脱線しましたが、もともと中国料理としてなかったチャプスイが移民のコミュニティーで生まれ、それがアメリカの一般人の中で中国料理とはこういうモノだと浸透し、認知された。そしてそれを見た他国の人達はアメリカではチャプスイが人気があるらしいとなり、自国にいる本物のコック達に作らせて料理として昇華していく。当然定義や調理方法も確立していき、名前も華やかになり八宝菜や全家福などと表現されたといったトコでしょうかネェ~(^_-)-☆

 

     

 

あ~面白かった。全然別の視点だけど、似たような見方をされているのでコレは楽しい...って、あ、そう、そうデス、四海楼さん!

 

「ちゃんぽん」も「ターンテーブル/回転盤」もやはり同じで、発明や特許というと大げさになるんですが、「ターンテーブルの発祥は目黒雅叙園の創設者である細川力蔵氏」と言ってしまうと、イギリスではレイジースーザンと呼ばれ18世紀にはあったとか、日本橋の濱の家や日比谷の山水楼には雅叙園前に使用されていたとか諸説ありますからそうじゃないでしょう、となってしまいますが、「日本が誇る三大名所、富士山、日光、雅叙園」といわれた通り(自称だそうですが(笑))、国内はモチロン、諸外国からの来訪も多く、さらに芸術的価値まで高められた雅叙園の円卓は、日本画家が盤図を受け持ち、一流の漆塗師が手掛け、軸は金物商の原安太郎氏、そして雅叙園の総棟梁である酒井久五郎氏が手掛けたという豪華メンバー。当然、モノが違い人々の目を惹いたのは間違いない。やはり「円卓の上に乗る回転盤が世界中に広まったのは目黒雅叙園からなのだ」というのはゆるぎない事実なのデス。

 

そして、ちゃんぽん。反物販売で名を挙げたのは実は陳平順氏だけではない。同じ時期の福建省福清出身で後に神戸華僑総会会長,神戸中華総商会会長の林同春氏、熊本でスーパーマーケット「ニコニコ堂」創業者の林康治氏、福岡華僑総会会長を長年務めた林 其根氏など錚々たる面々、そして陳平順氏はその中でも引けを取らない方だったのでしょう。料理人ではないが人望のある方だから、その彼を慕う同胞達が集まって来たのではないだろうか。そしてみんなを雇うためにも飲食業と宿泊業がスタートしたのではないだろうか。その中には前記したアメリカ帰りの人々もおり、チャプスイを作れる人もいたであろう。そして麺に関しては、現在唐灰汁麺を作れるのは数店しかないそうだが、もっとも歴史が古いのが瑞泰號製麺所さんで1888(明治22)年創業で自店のホームページでは長崎ちゃんぽんが出る前から唐灰汁麺はあったといわれてマス...ん?...ま、コレは創業者の劉徳英氏が「瑞源号」という屋号で食材・漢方薬の販売を始めたのが始まり、後に「瑞泰号」となって唐灰汁製造・製麺を始めたとなってますが、何年から屋号が変わったと記してないので...まぁ、元々古くからあった製麺方法だそうですからネ。人望ある仕事の出来る経営者のもとには才能ある仕事人達が集まる。食に対する飢えが当たり前の時代、美味しくって栄養があって海外で流行っているチャプスイ。具材は山海の地に恵まれた長崎、アレを使おう、コレはどうだ、スープはどうだ、こういう方法がある。麺は、調理方法は、値段は...経営者の陣頭指揮、強力なリーダーシップによって四海楼の「ちゃんぽん」は誕生した...のではないだろうか...美味しい、また食べたい...評判は上がる...やがてマネするモノが出る。「いーんだ、放っておきなさい、それよりも、美味しい、“ちゃんぽん”が、みなさんに喜ばれればいいじゃないか」と創業者...かくして「ちゃんぽんを日本中に広めたのは四海楼だからこそ」という事実は揺るぎないのだ<(_ _)>

 

     

 

ほー~ぅ...コレが、象牙の...麻雀牌! コレで人生を狂わせて...もしくは、道が開いた人もいるという、中国社会ではなくてはならない麻雀牌...現在も麻布十番にあるアノ店では麹町のビルを習得とか、全盛期はテレビに引っ張りダコでしたが、ソリ代わりに中華鍋で雪山を滑って大ヒンシュク、そしてコレで負けて自分の店を手放して、宇都宮にあるホテルの料理長として今も雇われ料理長になっている方とかの原因...あ、すいません、関係ないですネェ~m(__)m

 

そーでなくて、右側の画像。初代に仕えて戦後に料理長となり、佐世保駅前に暖簾分け的独立した正統派で唯一の日本人の方だそうデス。中国人の店で住み込みで働く日本人、当時でも珍しい存在だったそうですが、創業者にとても可愛がられていて信頼されていたのがコチラの大浦仁助氏。四海楼苦難の時代、それは戦争。1944(昭和19)年に廃業で、三菱の工員寮となる。さらに空襲の被害(火災)を防ぐという目的の建物疎開で店が取り壊される...そして1951(昭和26)年再開。大浦氏は召集令状を受けて中国やビルマという激戦地に赴く、が料理が出来るという事で連隊長などの世話をしていたお陰で「生き残れた」と後に語っていたという...あ、凄いナァ~、塩崎省吾氏は佐世保駅前から火災で(現在、佐世保駅前にある店ではないそうデス)、JR鳥栖で佐世保直通の長崎本線へ乗り換え、早岐(はいき)という駅に移転し、2019年7月21日に旧店舗での営業を終了。9月中旬から、600mほど北の新店舗で再開した店に行ったそうだ。

https://yakitan.info/archives/shikairou-sasebo

 

陳平順氏と大浦仁助氏を結びつけたのは、同じ想い、キリスト教だったのかも知れないという人がいる。中国でプロテスタントの教えに触れ、海外に目を向けるきっかけとなった創業者、そして大浦氏は出身地・五島列島はカトリック教徒が信仰を守り抜いた地である。二人は長崎で出会ったのも運命だったのかも知れませんネ~<(_ _)>

 

★ 四海楼 http://shikairou.com/

 

 

     

 

セーフ、一分前にバス到着...いや、諦めていた四海楼の「ちゃんぽんミュージアム」を短時間でしたが、しっかりと堪能しました。基礎知識も増えたので、またうかがいまして今度は四海楼で食事したいと思いマス。さぁ~て、長崎の旅はいよいよファイナルへと向かいマース(^_-)-☆