日曜日の午後、それは起こった

 

拙宅の四国犬の竜と紀州犬の剛は、とにかく賢く人懐っこい。
一緒に散歩していると、出会う人すべてに満遍なく愛嬌を振りまく。

散歩では、概ね同じようなところを通るので、コース上の何軒かは、拙宅の犬たちが来るのを楽しみにされている。
昨日の日曜日も、そうした方々から撫でられて、二頭ともご満悦だった。

しかし、好事魔多し。
初老のご婦人が、「かわいい犬ですね」と言いながら筆者たちに近づいてきた。
見た目は品格がありそうな外観に、筆者も竜も剛も全く警戒感を抱かずに接近を許してしまったのが間違いだった。
そのご婦人は、ひとしきり竜と剛を撫でた後、昨今の岸田政権の無能・売国ぶりに言及した。
これは筆者のみならず、もはや国民の総意とも言えるので問題なし。
だが、その先が一挙に怪しくなった。

そのご婦人は、「人間は愚かだから、全知全能の神にすべての判断を委ねるべき」と言い、筆者に一枚の紙きれを手渡した。
その紙切れには、「エ○バの証人」の記載。
もろカルトやん。

そのご婦人は、「岸田から高市さんに代わっても、愚かな政治は変わらない。真に正しい決裁が可能なのは、全知全能の神のみ」と宣った。

いやぁ、キチだね、これは…。
我が国の政治が目を覆うばかりの低次元ぶりなのには異論がないが、ありもしない存在に全面的に依存するとか馬鹿丸出しだよな。

それをそっくり言って、引導を渡してやりたくなったが、筆者も還暦を超えて人間が丸くなっている。それに、狂信者にド正論をぶちかましても効果がないどころか、逆上されて何をされるか分かったものではない。
ここはちょっと変化球で対応してみた。

「なるほど、この世界が行き詰った状態にあることは確かですね。そういえば、最近は技術的革新が顕著なAI(人工知能)に決裁を委ねるのはどうかという試みも提唱されています。AIの知能が人間を凌駕する特異点であるシンギュラリティが現実のものになりそうな昨今ですから、神が居るとしたら、AIのようなものかも知れませんね」
という筆者の言葉に、件のご婦人、あからさまに眉をひそめた。

「全能の主と、機械を一緒にするなんて、主に対する冒涜です」
筆者は内心せせら笑いながら、
「そうですね、全知全能の超自然的な神と、人工物に過ぎないAIとを混同するのは不適切であることは認めます」
と告げた。
ご婦人は、こちらが負けを認めたと勘違いしたのか、どや顔で筆者に向き直った。
「当然です。ですが、愚かな人間は、機械にすら縋らなければならない。であれば、全知全能の神のお告げに従った方が賢明です」
筆者はその場で笑い出しそうになるのを必死にこらえて、次のように言い添えた。
「たしかに、シンギュラリティに達したAIは、愚かな人間よりも相対的にまともな答えを出すかも知れません。しかし、知性を放棄して人類以外の第三者にすべてを委ねるのは、知的生命体としての行動ではありません。私は、AIがいかように進歩しようとも、また、超自然的な神なるものが居るにせよ、そのいずれにも対抗できる様に知的研鑽を積むことが人間としての本分であると心得ます」
ご婦人は、一瞬、あっけにとられたようだが、すぐさま反撃に転じた。
「主は絶対です。主の前には人間の英知など単なる子供だましに過ぎません。人間に無駄な知力なんか主はお望みではありません」
出た! 反知性主義。ひろゆき(筆者は大嫌いだが…)とかなら、『それは、あなたの感想ですよね?』とか言いそう。ともかく、変な宗教に凝り固まった人って、例外なく知性に対し意志や感情を優位に置く反知性主義になりがちなんだよな。

相手が反知性主義であることが分かれば、話は早い。
「なるほど、人間は、高みに居る神から俯瞰される低次元な存在ということですか。それはそうかも知れません。言うなれば、我々は主から見て、犬猫のような愛玩動物みたいなものですかね」
「それは…」
ご婦人が何やら言いかけたが、筆者は不毛な会話を打ち切るために、竜と剛を撫でながら、とどめの一言を添えた。
「私は、犬を飼うなら、この犬達のように賢い方が可愛いと思います。神と人との関係も同じでしょう。造物主にとっても、バカよりは利口な方が望ましいはずですよ」
筆者がにやりとすると、ご婦人は「これ以上この男に何を言っても無駄だ」と悟ったのか、納得のいかない表情で筆者から離れていった。
よっしゃ、悪のカルト構成員を一人撃破!
筆者は、犬たちを撫でてご機嫌をとった後、その場をそそくさと後にした。
別の構成員に来られては面倒だからね。

竜「何だったの、あのオバはん」

剛「カルトとか言ってたけど、俺らを撫でてくれたからいいんじゃね?」

筆者「…」

 


要は模範解答が欲しいのさ

知性に対し意志や感情を優位に置く反知性主義というのは、結局のところ、自身では考えずに安易に模範解答を得たいというのが透けて見える。

信徒では解決不可能な課題を、全知全能な神が模範解答を提示してくれるということを期待し、与えられた模範解答を忠実に実行するということだ。
その模範解答だって、宗教指導者が自身の欲得を織り交ぜた適当な代物だというのにバカな話だ。
2chで、カルト宗教にはまる連中の特徴が挙げられていたが、一に貧乏、二に病気、三、四がなくて、五にバカとかいうことが論じられていた。
うん、今回のことで、筆者もカルト宗教にはまる奴はバカだということを実感した。
同時に、模範解答に頼るというのが、いわゆる受験秀才だった日本の似非エリートと共通することにも思い至った。

日本の似非エリートの代表格は、財務省のキャリア官僚だろう。
彼らは東大の文一に合格し、さらには国家公務員一種試験に合格した受験のスペシャリストである。
しかしながら、大学受験も、公務員試験も、模範解答の再現だけが要求される。模範解答の類型を憶え込み、テストで再現できるのであれば、未知の問題を考え抜いて解答を導き出す思考力がなくても何とかなる。

いや、むしろ、上意下達の官僚にとって、自身の頭で考えて結論を出すことは、官僚機構において有害無益と判断される。
聞けば、財務省では、(大蔵省時代から)増税を成し遂げた役人が出世するというのが伝統であるそうな。
財務官僚たちにとって、増税こそが模範解答であり、景気を良くして自然税収を図るというのは模範解答からほど遠い誤答ということになる。

国力が落ちても、国民がどんなに貧しくなっても、増税と緊縮財政をやめない財務省は、経済アナリストの森永卓郎氏が「ザイム真理教」と揶揄する通り、悪質なカルト集団だと断定して差し支えない。

 

 

似非エリートはカルトを目指す

もう30年ほど昔になってしまったが、世界中を震撼させた地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の幹部が、有名大学出身のいわゆるエリート層(いや、本質は社会不適応な落ちこぼれだろうが)ばかりであったことが当時話題になったことを思い出した。
当時の週刊誌等では、「知的水準が高いはずのエリート層が、何故にカルト宗教にのめり込んだのか不可解だ」ということが報じられていた。

だが、これも、オウム真理教の幹部が単なる偏差値秀才であったのならば、簡単に説明がつく。
要は、模範解答の再現は出来ても、自分の頭で考える能力に乏しい、松本智津夫とかいう胡散臭い人物の欲にまみれた妄想を教義と信じるようなバカが幹部だったということに過ぎない。
自分の頭では善悪の判断すらまともにできないバカが、なまじ高学歴を気取ると碌なことにならない見本の一つだろう。
しかも、このようなオウム真理教の構図は、財務省のような官僚機構にも相似するのが恐ろしい。

拙ブログで過去にも書き散らしたが、単なる詰め込み教育ではなく、思考力を重視する教育を施さないと、今後もこの種の似非エリートの暴走は続くだろう。
しかしながら、教育を司る文科省自体が、財務省以上にどうしようもないクズばかりだから困ったもんだ。
いっそ、AIを人工の神に仕立てて、その決裁を仰いだ方がマシかも知れない…。