永京白衣~えいきょうびゃくえです🌺




ご訪問ありがとうございます。


ある書籍を紹介して頂き読んでみました。


『最後だとわかっていたなら』


~もし、明日が来ないとしたら、わたしは今日、どんなにあなたを愛しているか伝えたい。



『もし』という言語は、確率的にどのくらいを指すものなのか。


言えることは、全て不確定である。


明日、愛する人がいなくなることは不確定。


そして、明日、愛する人がいるということも不確定。


同じ不確定なはずなのに、どちらかといえば、ネガティブに寄りがちになるこの次元で、ネガティブから愛へなぜ変換していかないのか。


そんなことを想像するだけでどうにも心が苦しくなる。


きっと年齢順で流れていくものだ。


そんな言葉が頭をよぎり、その恐怖や焦りは一瞬で流れていく。


しかし、本来は不確定であり、年齢さえも関係ないもの。


もしかしたら、肉体を脱いでなお、繋がっていることを深い意識では知っているのか。


知っていたとしても、なぜ肉体を持ち、自分であろう器にこの感情を体験してるのだろうか。


その体感は紛れもなく存在している。


しかし、また流れていく。


自己という存在さえあやふやな中で、大切な存在があること。


内なる存在が、大切な人への想いを馳せている時、自分はどんな表情をしているのか。


自分の表情だけは媒体を通してしか確認できない。


わたくしは思います。


鏡をみようとする表情と、大切な人へ想いを馳せている表情は、別物だと。



最後だとわかっていたなら、愛する人に何を伝えるか。


最後だとわかっていたなら。



そして、わからないからこその美しさもある。


わからないからこそ。



明日はまだ続くと思うのと、今日で最後かもしれないと感じることの違い。


ならば早く逢いに行かなければ!というものでなくとも、感じる世界がある。


感じる世界は必ずや届くはず。



穏やかな波。


そんなことを感じながら、目の前で集中しマンガを描いている娘をじっと見つめてしまう。


最後という実感がなくとも、ただただこの奇跡を感じずにはいられない。


自分の記憶さえ不確定である中、今のこの奇跡は確実にある。


想いの力を祈りの源として大切に育てたい。


必ずそれができる。



最後だとわかっていたなら、どうしたいか。


ご縁に感謝いたします。



生命鑑定アドバイザー 永京白衣