白衣です🌺
私は産まれてから、両親が仲良く会話する姿は知りません。両親はいつも激しく言い争ってました。
身体が弱い父はほとんど働かず、母が昼も夜も働き、段々帰らなくなり、父から追い出され、私は父と2人の生活が18歳で家出するまで続きました。
途中、小学3年の時に、登校中の私を母が待っていて「一緒に行く?お母さんについてくる?」と。
母が大好きだった私は迷いもなく、「一緒にいく!」と。
ランドセルを背負ったまま母の故郷に行き、数ヶ月そこで新たに小学校に通いました。
それから、父は母の故郷にいると捜しだし、当時、従姉妹と歩いていた私を待ち伏せし、そのまま車で空港へ。
薄暗い中、サングラスをかけた父を従姉妹は知らない男性と思い、慌てふためいて、母や叔母の所へ
私が連れ去られたと駆け込んだそうです。
警察に通報され、レンタカーで空港に向かおうとしていた父は一斉に交通網を捜索され、捕まりました。
当時の記憶はまだあります。
車の後ろのシートで寝ていた私は、ライトを顔に当てられ、「○○ちゃんかな?」と声をかけられました。
父と私は警察署に連れて行かれ、母や叔母が泣いて私を呼んでいることに氣づきました。
母は足がもつれながら、私に近づき、安心して泣いてました。
そこからはぼんやりとした記憶しかありません。
一人の警察官が「こんなに幼いあなたが巻き込まれて可哀想に」と言われたのは覚えてます。
あと、お父さんとお母さんとはどちらといたいか?と聞かれ、
「選べない」と言いたくても言えず、私は傷ついてないという態度を示していたのも覚えてます。
その時には、もう氣持ちを表現することを忘れていたと今なら分かります。
新聞にも「子どもを取り合い、父親が我が子を誘拐」みたいな記事になったと聞きました。
それから、どうなったか。
経済的な理由と父が「責任を持って育てる」ということで、母から離され、父と戻りました。
そこからも終わらない苦しさの始まりでした。
『籠の鳥』状態でした。
些細なことでも激昂し叩かれ、竹刀でも身体中アザになるまで叩かれ、夜中はずっと立たされたりしてました。
その時から、私は謝ることを意地でもしなくなりました。
絶対にお前に謝ってやるものかと。どれだけ叩かれても、朝まで立ちっぱなしにされても、謝らないと。
脅す父をどこか冷めた目でみて、しまいには「まだ謝らないのか!」と父がその一言を待っているのも悔しかった。
母から電話がこないように電話線を外され、お金もなかったので服も何も買えず、学校の集金も1円玉や小銭で集め、パンパンになった集金袋を学校で笑われたり、おかしな家というイメージもついてました。
ご飯の炊き方は覚えましたが、たまに持っていかないといけないお弁当の日は、お弁当の隙間を埋められず、白米とふりかけを持っていきました。
でも、豪華なおかずのお友達のお弁当をみて、「あっ、職員室に行かなきゃいけなかった」と、その場を離れ、結局は食べないこともありました。
高校の修学旅行は自ら辞退を担任に報告しましたが、学生最後のイベントには参加してほしいと説得されました。返金してほしいだけです、と伝えたら、微妙な表情で了承してくれました。
本当に恥ずかしく惨めだった。でも、氣にしないふりして笑ってた子ども時代。
父に束縛され、監視され、でもこっそり私に会いにくる母だけが全てでした。
友達と遊ぶより、とにかく母と会いたかった。
いつも母が仕事から帰ってくるバスを待ち、時間ギリギリまで会っていました。
その時にこっそりお小遣いをもらったり、必要なものを父が氣づかないように買ってもらいました。
父が憎くて仕方なかった。1日に何度早く死んでほしいと願っていたか。早く家を出たいと強く思っていました。
しかし、父は「結婚なんかしたらお前の母みたいにダメになる」とよく聞かされてたので、家からは出れないのではと不安しかなかった。
父は母と19歳離れ、49歳の時に私が産まれました。バツ2で母と結婚。母は当時の父は魅力的だったと。
小、中学までは電話で連絡網が回ってたので、みんなも困るから電話を繋いでほしいと頼み、日中の数時間だけ電話が通じた時に、たまに男子から電話がかかってきたりしました。
父は「何の用だ」と怒鳴り、それからしばらくはまた電話線を外されました。
でも実は、父がどうやって電話線を外していたのかを調べ、小学生の私は、父が確実にいない時間帯だけ狙って、電話線をまた繋げ、もしかしたら母から電話がくるかもと待っていたものです。
そして、またすぐに自分で電話を不通に戻すの繰り返し。
とにかく、父は近所ともモメ、先生ともモメ、付き合う人もなく、孤独な人生でした。
高校生になっても結婚したらダメだ。お化粧したらダメだ。帰宅時間を守れ。打ち上げなんかダメだ。
ダメダメダメダメ。
そして、バイトをしながら、足りないお金を借り、短大にどうにか行きました。
短大は楽しかった。自由を感じました。バイトと短大の日々。父からの解放を少し感じてました。
短大の友人に飲み会に誘われどうしても行きたく、友達と夕御飯を食べる許可を得ました。
しかし、帰宅時間が遅れました。
父との約束の時間20時には帰らないといけなかったけれど、時間はあっという間に20時になり、まずい、どうしようという焦りで、逆にその後の展開を怖れ、動けずにいました。
重すぎる足取りで帰宅した時に父は包丁を持ちながら待ち構えてました。
くだらない女だと罵倒され、激昂した父の顔。散々罵られ、父がその場から少し離れた瞬間に、私はそのまま
玄関から飛び出しました。もう無理だと。一度走り出したらもう止まらない。今しかないと。
その日から短大もそのまま行かず、行方を絶ちました。
絶対にどんな手段を使っても捜しだされる恐怖から、見つからないようにと一人の友人宅へ逃げました。
友人も事情を知ってくれていたので、落ち着くまで居て良いと、彼女は母子家庭でお母さんは夜の仕事していて、昼間に寝て、夕方にはいなかったので、私に対しても何も聞くこともなく、逆に楽しくしてねと言ってもらい、3人でしばらくは生活させてもらってました。
まずお金が必要だったので、ずっと働いてました。
18歳だった私はお化粧を覚え、昼間もバイトをし、夜はクラブで働きました。
お化粧して綺麗に着飾れば、こうもチヤホヤされて注目を浴びるのかと、自分を癒すことと真反対の
鎧をつけることになっていきました。
中身は飢えたまま、外見は華やかさを演じ続けてきました。
父への恨みを、主人に投影してきたこと。
愛情を依存という形で子どもに投影し、息子から「お前はキレイごとだ。親なんかじゃない」と。
私は父と似てしまうことが怖く、繰り返すことが怖く、でも繰り返す。
父から離れたら、生きる全てだった母とも合わなくなりました。母は一緒に住んでる人がもういたから。
ショックでした。私より大切なのか?と。
主人と、息子と、母と、人間関係と、職場と全てうまくいかなかった。
はっきり心身を崩したのは、16年ぶりに娘を高齢出産してから。
妊娠後期から不安定でしたが、出産し、数週間でおかしくなりました。
産後うつだとか、高血圧、甲状腺やら身体からと、パニック、恐怖症など、自分のことすらまともにできなく、一人では育児もできなくなり、母と主人が交互に側にいてくれないとダメになりました。
娘が産まれたら、母や主人、息子とも人間関係が変わるはずだと思っていましたが、現実は主人は仕事に影響し険悪になり、母も仕事に行けず自分の暮らしが疎かになりストレスをため、息子ともより争い、でも助けてもらわねばならない環境に絶望と焦りしかありませんでした。
主人と母にも怒りしかなかった。
そこから、私は病院の限界を感じ、意識を学ぶきっかけとなりました。
私が恨んで憎んできたこと。
鎧を外すことなんて、丸裸の自分なんて、価値がないと思って疑わなかった。
溢れ出る怒り。
今、私がずっと追い求めていた母は、私がなんとか生活ができるようになってから、亡くなりました。
子どもの頃から、母がいなくなることが恐怖だった、一番恐れていたこと。
母は役目を果たして見届けてくれたのだと今は思います。
父も10年前に亡くなりました。
その時は、役所が私を捜しだし連絡がきました。「お父様が危篤なので、来てもらえますか?」と。
それを聞き、愕然としました。
恐ろしい父。逃げ回らないといけなかった父が危篤?
父は84歳でした。会いに行くのを先延ばしていたことを後悔しました。
私の時間と父の時間の経過は全く違ったのだと。
すぐに父に会いに行った時は、父は酸素マスクを外してしまうからと腕を縛られてました。
十何年会ってなかったのだろう。
弱々しい姿の父に動揺を隠しながらも、お父さん、、とよびました。
目が開いて私を見た瞬間に酸素マスクをしながらも「帰れ!コノヤロー」と縛られた腕を強く振りました。
姿は小さくなってましたが、強氣は全く変わっていませんでした。
救急車で運ばれてきたと聞いてましたが、ロッカーの服をみたら、きちんと畳まれ、オシャレなセーターなどあり、お金がなくとも、昔からセンスはあったなぁと時が戻りました。
そして、帰れと言われても、私は帰りませんでした。
最期まで父の側にいると決めていたので、一日目は父の視界に入らないようにし、椅子で寝ました。
二日目から簡易ベッドを用意してくれました。でも、横にはなれなかった。
そして、父は私が側にいることを受け入れ、喉が乾いたとか布団が重いとか言ってくるようになりました。
苦しむ姿は見られたくない父だと分かってましたが、息子をよびました。
初めて対面する父と孫。
酸素マスクをつけて目を開けるのも苦しいはずでしたが、孫を呼んだよと伝えたら、とたんに目が開き、キョロキョロと見渡し頭を持ち上げました。
そして、病室に入ってきた13歳になった息子と目を合わせ、うんうんと笑顔があふれました。
「おじいちゃん、ざるそば好きなんでしょ。僕も好きなんだ。今度食べに行こう」と。
父は頭を上げ、嬉しそうに、うんうんと。息子が病室から出るまで頭を上げ、笑ってました。
それから二日後に父は穏やかな表情で旅立ちました。
もうダメだと思っても、自分で大きな呼吸をしようとして、何度戻ってきたでしょう。
父も孫との約束を果たそうとしてくれたのかなと思いました。
18歳以来、時を経て父と過ごした最後の4日間。
これが、後に意味があったことを知ります。
そして、父の部屋を片付けに行った時、本当に時が止まってました。
何度か引っ越しをしていたようですが、私の学生時代のノートや懐かしい私物が置いてありました。
カーテンも、食器も、ほとんど、私と暮らしていた当時のまま。
そして、私に出そうとしていた手紙が出てきました。2年前に書いていた手紙でした。
「何か必要なものはないか?誕生日に何か買ってあげたい。連絡がほしい」と書いてあり、
何故、手紙を出してくれなかったのかと、出してくれてたら。
そして、息子が産まれた時に出した年賀状が大切に挟んでありました。
最期に薄目をあけて微笑んだ父の表情がぐるぐる回り後悔しかありませんでした。罪悪感で潰れそうでした。
そして、父が亡くなってからすぐに奇跡的に娘を授かりました。
そこからも、先ほど書いたように、心身を崩しました。
私は自分の人生がギフトだとは思えなかった。
でも、私の中で、何かがずっと私の経験をみている氣はしていました。
何を知りたくて、何を越えるために、経験してきたのか。
恨みや怒りをギフトとして扱えるなんてキレイごとにしかなかった。
いくらカウンセリングを受けようが、何かが暴れていた。
でも、ずっと暴れていた先に、急に何かがこみ上げ、無になる。
自分の投影で世の中が創られてるなら、そりゃ闇だと諦めにもなりました。
でも、まだその先に続く、意識がある。
私は闇?でも、その先に続くと、平安と自分へのいつくしさも感じる。
承認を得る為がほとんどだとしても、とっさの衝動は間違いなく愛から動いている。
そのとっさの、無で動いた私は、紛れもなく、本来の姿だと知った時に、心から自分を愛おしくなります。
自分が何を得たいのかに少しずつ触れた時に、自分の真実に触れた時、過去の意味はひっくり返る。
私は外にしか求めてなかったから、本質を見る目がなかった。
今までたくさんメッセージに溢れていたのに、氣づけなかった。
鎧を脱いで素を晒すほうがリスクがあるとさえ思っていました。
でも、それも捨てたもんじゃないのではないか。
その先に何かが待ってると感じます。