白衣です🌺




自分の目を通して何かがみていると感じることはありますか?


これは、私が私を一生みることはできないということと繋がるかもしれません。


この不思議な感覚を主人や知人に話したことはありましたが、ちょっと不思議な人と思われてしまうので、あまり言ってきませんでした。



鏡をみて、自分を『誰?』と思う。


写真をみて、『私ってこういう感じなんだ』と不思議な氣持ち。


子どもとふざけてる時に映った自分をみても、『真面目そうな大人がふざけてる』と。



とにかく、我が内と鏡や写真に写る私が一致しない。



料理を作りながら、まな板で包丁を使う手が何してるのか、まるで自分のものではないという感覚になる。


自転車を乗っている時に、自分は全く動いてないとなる感覚。景色が流れてるだけと。



そこは、ただ静かに、冷静に、目を通してみてる。


私が喜怒哀楽に浸っている時も、それさえもジーとみてる氣がする。


街を歩いている時に、見える全ての人が一斉に『はい!ドッキリでした~。この世の壮大なドッキリ~』


と笑いながらプラカードを私に見せるのではないかと思ったことも。



視覚を疑いだした時から、自分は何を見せられてるのか?何をみてるのか?と思うようになりました。




それを、ようやく、少しは納得できることになりました。


自分が自分であれる場所。


常に俯瞰していて、ジャッジなく、たた在る状態。



ずっと私と思っている私は、鏡の中の幻であり、鏡からみえる姿とは全く違う内がある。


大人だから、親だから、母だから・・・そんなとこに居ない純粋な意識がある。


ワクワクしたり、可能性を信じて情熱的に生きたい、という反面、


弱い、泣きたい、逃げたい、嫌だ、言い返したい、などという子ども心もある。


それを全てまた感じて俯瞰してる何かがいる。



これって、そこは解明できないと思ったら、『ハイアーセルフ』の領域じゃないかと。



ハイアーセルフを語るより、私はこの何かと常に意識して繋がっていたいと思う。



日常の中で、その何かを忘れてしまいがちですが、鏡を見るたびに、ハッと不思議な感覚に戻る。



私がずっと体験、体感していることをただ静かにみている。



皆が同じものを見ているとは限らないのではないか。



そして、私は、経験こそ宝物だ、という処に戻ります。



五感で物理的に自分を制限する領域に置くより、目に見えないことをみる視覚や自然の美しい音を聴いたりする聴覚など、自分で自分を幸せにする五感として磨いていきたいです。



そう考えたら、自分だけは自分を幸せにも不幸にもできる。



そもそも幸、不幸もその何かにしたら、ただの経験かもしれない。



その価値観もガラッと変えてしまうことさえできる。



言葉にすることは限界ですね(笑)



でも、自分しか自分を幸せと置けないし、自分の想いが体感として全てということですね。