(劇評)「薄氷の上を歩む天皇制」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2020年12月19日(土)19:00開演の劇団羅針盤『元号パレード』についての劇評です。

「かなざわリージョナルシアター2020げきみる」のフィナーレを飾り、劇団羅針盤『元号パレード』(作・演出:平田知大)が金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。飛鳥時代の「大化」から現在の「令和」まで248個もある元号を順番に読み上げながら、それにまつわるエピソードを織り交ぜていく日本史エンターテインメントだ。とにかく数をこなすため、ほとんどの元号は一言二言で通り過ぎる。場面は次々と変わる。天皇役の能沢秀矢と政治家役の平田知大による掛け合いが漫才のように軽快で小気味よい。ゲストの志波重忠、田中麻衣子(いずれもカンフーサークル武練隊)が元寇のモンゴル軍などを演じ、4人が剣で切り結ぶ殺陣は颯爽としてカッコ良かった。そして、見終わった後、元号とは切っても切れない天皇制や日本の行く末についても考えさせられた。

最初は歴史の教科書にも出てきた「大化の改新」ということで、中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害するシーンが比較的あっさりと演じられた。そこではまさに皇族こそが日本というドラマの主人公だった。だが、元号が進むにつれ、藤原道長、平清盛、北条政子(寺嶋佳代)といった公家や武士の権力者たちが天皇を押しのけ、我が物顔で政治を占有するようになった。天皇だからと言って、強いわけでも、勝つわけでもない。かろうじて天皇が存在感を発揮できたのは、後醍醐天皇による「建武の中興」、あるいは奈良と京都に2人の天皇が並び立った南北朝時代ぐらいだろうか?江戸時代には天皇が勝手に元号を変える権利すらも奪われ、徳川幕府の承認が不可欠だったことも今回の作品で初めて知った。

明治以降、天皇は再び政治の表舞台に顔を出すようになった。しかし、それは周囲によって担ぎ上げられた神輿というか、単なるお飾りに過ぎなかったのではないか。さらに第二次世界大戦の敗戦後は日本国民の「象徴」となった。地位の保証と引き換えに、かつての中大兄皇子や後醍醐天皇たちが身をもって示したほどダイナミックな改革の原動力となることはもはや不可能になった。

すべての元号を網羅した今回の作品に対し、右翼的な思想を助長するのではないかという懸念も耳にした。その指摘はもっともだが、私は現在の天皇制について良くも悪くもそれほどのパワーを感じない。正直なところ、長くてもあとせいぜい二つか三つぐらいの元号を重ねた後で、天皇制は自然消滅する確率が高いのではないかと思う。

少し脱線するが、中世や封建時代だけにとどまらず、明治期に入っても当然のごとく後宮があった。明治天皇には、皇后の一条美子だけでなく、葉室光子、橋本夏子、柳原愛子、千種任子、園祥子といった側室たちがいたのである。ちなみに正妻の美子には子がなかった。跡継ぎとなる大正天皇を授かったのは愛子であり、最も多産な祥子は2男6女をもうけている。男系の血統で継承するという天皇制のルールを忠実に守るためには、何よりも「多妻婚」が必要だったのだ。

ところが、戦後に施行された平和憲法で「象徴」となった天皇には、国民の模範となり得る一夫一婦制が求められている。不倫はおろか、若い頃の性的な試行錯誤さえ、許されないような雰囲気がある。国民の人権意識の高まりからすれば、たとえ天皇であっても(だからこそ?)多妻制を認めるような例外扱いは言語道断だろう。お相手の立場から言っても、「産む道具」以外の何者でもない側室という屈辱的な境遇に身を置きたがる奇特な女性はおそらく皆無だと思われる。そうした中で正妻の皇后のみから男子の誕生を期待することは、ほとんどギャンブルと変わらない。

あるいは近い将来、よほど後継者に困った場合、どこか遠縁の親戚からいきなり「跡継ぎ」として誰かが連れて来られる可能性もなくはない。しかし、そのような人が突然登場したとしても、国民は胡散臭く感じてしまうのではないだろうか。何故ならば、マスコミが発達した現代において、幼少期からの姿をテレビやグラビアで見知っている方々のみを我々は「皇族」として認識している。たとえ明白な血の繋がりが確認されたとしても、いきなり出現した新参者に対して既存の皇族方と同等の親しみを抱けるはずがない。

あれこれ考えてみると、天皇制は遅かれ早かれ消滅という既定のプログラムに沿って着々と進んでいるとしか思えない。そんな空想を膨らませながら、今回の作品を改めて眺めてみると、舞台の上から漂って来た祝祭ムードとは裏腹に、元号パレードの行く末はまるで薄氷の上を歩むように心細く感じられ、複雑な気持ちになった。