(劇評・12/16更新)「何が演劇になるのか」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2020年12月5日(土)よりオンライン公開の劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』についての劇評です。

 何がどうあれば演劇になるのだろう。劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(脚本・演出:内尾涼介、撮影:岩尾龍太郎、内尾涼介、編集:内尾涼介)は、そんな途方もなく大きな疑問を私に抱かせた。劇団情熱劇場は、今年旗揚げしたばかりの劇団だ。かなざわリージョナルシアター2020げきみるにて初公演となる予定であったが、コロナ禍の状況を踏まえ、映像作品での参加となったそうだ。この経緯がまた、「何が演劇になるのか」という疑問に複雑に絡んでくる。舞台作品と映像作品の違いについても考えなくてはいけないからだ。映像だから演劇ではない、というわけでは決してない。録画、編集されたものであっても、映像効果がふんだんに取り入れられていても、演劇であると強く感じる作品はある。しかし、『親殺しのパラドックス』を鑑賞して、演劇であるとはどういうことか、という疑問が生まれてしまった。その理由は何にあるのか。

 作品の舞台は大学のSF研究会。部長の坂本(内尾涼介)が部室に来ると、部員の小野(山岸光)が久しぶりに顔を見せる。小野はタイムマシンを作ったという。それは電卓に箱型のライトが付いたような形をしている。行きたい年月日と時刻を入力すると、その時間に行けるというのだ。小野には疑問に思っていることがあった。それは「親殺しのパラドックス」だ。過去にいる親を殺すと、未来の自分も消えてしまうのか。小野はタイムマシンのテストを始める。タイムマシンを作動させるため走った小野は、光って消える。小野が消えた後、光とともに何かが出現した。それは小野でなかった。新入部員かと勘違いした坂本が名前を尋ねると、彼は小野純一(新田龍一)だという。純一は小野のノートに興味があるようだ。坂本がジュースを買いに行っている間に、純一は消える。そして小野が帰ってくる。実験は成功だ。小野が不在の間に再び訪れた純一によると、彼は未来から来た、小野の息子だという。彼もまた「親殺しのパラドックス」を疑問に思っていた。よって、小野は純一に命を狙われることになる。

 タイムマシンやタイムパラドックスなど、SF的な知識が筆者にはない。だからこそ、知識を持たない者でも納得してしまうほどの説得力が、物語に欲しい、と感じた。説明が足りないわけではない。言葉以外でわかりやすく伝えるのは至難の技だとは思う。そしてこれは「味」と捉える向きもあるだろうし、あえての選択なのだろうとは思うが、話し方や受け答え、身振りなどの演技、小道具、音楽の選択、映像処理の使い方などに見られる「ゆるさ」が物語への感情移入を遠ざけているように感じた。小野を殺そうと追う純一と小野の間に緊張が感じられない。タイムマシンの作り方が書かれているはずの大事なノートに、何かが書いてあるようには見えない。SF研究会の部室のはずなのに、レンタル会議室の注意書きが貼ってある。など、非常に些細なことまでが気になってくる。

 「簡単さ」が、この作品を語る上でのキーワードになるだろう。昔なら専用の機材をあれこれ準備しなければできなかった撮影も、編集も、スマホがあればできてしまう。配信されている動画のタイトルに「歌ってみた」「踊ってみた」など「してみた」が付くものがあるが、この「できる環境があるからやってみた」感覚が『親殺しのパラドックス』にも漂っている。ただそれは悪い話ではない。しなくてもいい苦労はしないほうがいい。苦労をすればいいものができるわけではない。ある環境は使えばいい。しかし、誰でもできるからこそ、競争は厳しくなっている。もう一つキーワードを挙げるなら「軽さ」だ。命の扱われ方があまりにも軽い。その軽さが今の感覚なのかもしれないが、先に記載した「ゆるさ」とつながって、親殺しという題材の深刻さは薄れている。

 この作品に、演劇という何かへの疑問を抱かせる要因があるとして、その一つには、観客の不在が挙げられるのではないか。録画している時も、編集している時も、そこにあるのは創り手の視点だけだ。目の前にいない観客の反応や受け取り方を想像して制作できればいいのだろうが、自分の行いを客観視し、時には自分で修正しなければいけないことは難しい。

 何が演劇になるのか。いや、そもそも、演劇という何かにならなければいけない理由もないのではないか。ボーダーレスな表現が、演劇の形態も変えていくのだろう。『親殺しのパラドックス』もその萌芽の一つなのかもしれない。しかし、演劇というジャンルの進化が起きているとしても、まだまだそれは途上にある。やってみることができるからこそ、やってみた先に何が訪れる可能性があるのか、それは観客に何をもたらすのかを、想像してみる必要がある。


(以下は更新前の文章です)


 何がどうあれば演劇になるのだろう。劇団情熱劇場『親殺しのパラドックス』(脚本・演出:内尾涼介、撮影:岩尾龍太郎、内尾涼介、編集:内尾涼介)は、そんな途方もなく大きな疑問を私に抱かせた。劇団情熱劇場は、今年旗揚げしたばかりの劇団だ。かなざわリージョナルシアター2020げきみるにて初公演となる予定であったが、コロナ禍の状況を踏まえ、映像作品での参加となったそうだ。この経緯がまた、「何が演劇になるのか」という疑問に複雑に絡んでくる。舞台作品と映像作品の違いについても考えなくてはいけないからだ。映像だから演劇ではない、というわけでは決してない。録画、編集されたものであっても、映像効果がふんだんに取り入れられていても、演劇であると強く感じる作品はある。しかし、『親殺しのパラドックス』を鑑賞して、演劇であるとはどういうことか、という疑問が生まれてしまった。その理由は何にあるのか。

 作品の舞台は大学のSF研究会。部長の坂本(内尾涼介)が部室に来ると、部員の小野(山岸光)が久しぶりに顔を見せる。小野はタイムマシンを作ったという。それは電卓に箱型のライトが付いたような形をしている。行きたい年月日と時刻を入力すると、その時間に行けるというのだ。小野には疑問に思っていることがあった。それは「親殺しのパラドックス」だ。過去にいる親を殺すと、未来の自分も消えてしまうのか。小野はタイムマシンのテストを始める。タイムマシンを作動させるため走った小野は、光って消える。小野が消えた後、光とともに何かが出現した。それは小野でなかった。新入部員かと勘違いした坂本が名前を尋ねると、彼は小野純一(新田龍一)だという。純一は小野のノートに興味があるようだ。坂本がジュースを買いに行っている間に、純一は消える。そして小野が帰ってくる。実験は成功だ。小野が不在の間に再び訪れた純一によると、彼は未来から来た、小野の息子だという。彼もまた「親殺しのパラドックス」を疑問に思っていた。よって、小野は純一に命を狙われることになる。

 タイムマシンやタイムパラドックスなど、SF的な知識が筆者にはない。だからこそ、知識を持たない者でも納得してしまうほどの説得力が、物語に欲しい、と感じた。説明が足りないわけではない。言葉以外でわかりやすく伝えるのは至難の技だとは思う。そしてこれは「味」と捉える向きもあるだろうし、あえての選択なのだろうとは思うが、話し方や受け答え、身振りなどの演技、小道具、音楽の選択、映像処理の使い方などに見られる「ゆるさ」が物語への感情移入を遠ざけているように感じた。小野を殺そうと追う純一と小野の間に緊張が感じられない。タイムマシンの作り方が書かれているはずの大事なノートに、何かが書いてあるようには見えない。SF研究会の部室のはずなのに、レンタル会議室の注意書きが貼ってある。など、非常に些細なことまでが気になってくる。

 この作品に、演劇という何かへの疑問を抱かせる要因があるとして、その一つには、観客の不在が挙げられるのではないか。録画している時も、編集している時も、そこにあるのは創り手の視点だけだ。目の前にいない観客の反応や受け取り方を想像して制作できればいいのだろうが、自分の行いを客観視し、時には自分で修正しなければいけないことは難しい。

 「簡単さ」が、この作品を語る上でのキーワードになるだろう。昔なら専用の機材をあれこれ準備しなければできなかった撮影も、編集も、スマホがあればできてしまう。配信されている動画のタイトルに「歌ってみた」「踊ってみた」など「してみた」が付くものがあるが、この「できる環境があるからやってみた」感覚が『親殺しのパラドックス』にも漂っている。ただそれは悪い話ではない。しなくてもいい苦労はしないほうがいい。苦労をすればいいものができるわけではない。ある環境は使えばいい。しかし、誰でもできるからこそ、競争は厳しくなっている。もう一つキーワードを挙げるなら「軽さ」だ。命の扱われ方があまりにも軽い。その軽さが今の感覚なのかもしれないが、先に記載した「ゆるさ」とつながって、親殺しという題材の深刻さは薄れている。

 何が演劇になるのか。いや、そもそも、演劇という何かにならなければいけない理由もないのではないか。ボーダーレスな表現が、演劇の形態も変えていくのだろう。『親殺しのパラドックス』もその萌芽の一つなのかもしれない。しかし、演劇というジャンルの進化が起きているとしても、まだまだそれは途上にある。やってみることができるからこそ、やってみた先に何が訪れる可能性があるのか、それは観客に何をもたらすのかを、想像してみる必要がある。