本来の自分に戻って魂を生きる -4ページ目

今日はちょっと辛口です。
以前の記事で、
「この先はさらにマニアックになることもあると思う」と書いたのですが、
実は、ある本について書いていこうと思っていました。

でも、その時点ではそう思っていたのですが、
その後すぐに思いなおして、書くことをやめたのですσ(^_^;)
というのは、誰も「そのこと」を望んでいないからです。
少なくとも私の知る限りでは、
本当に気づきたいと思ってその本を学んでいる人は、「いない」からです。

私がその本を知ったのは、某養成講座でした。
私は昔からほとんど本を読まない、というか、
読んでいられないことが多くて(最近になってようやくその理由がわかった)、
ちゃんと読了できた本は世間的に見ても極端に少ないぐらい読書が苦手なのですが、
講座の内容が途中からその本の内容に流れていったことで、読むことになったのです。

その本は世界のスピリチュアルリーダーたちがバイブルにしている、と言われているらしく、
なかなかの分厚い本(三部構成)な上に、難解と言われているので、
なにやら一気に読むのではなく、
1日3ページずつぐらいの割合で読み進めたほうが良い、と教わり、
それを日課にしていたわけですが、
私は途中でその本から離れました。
同じことを繰り返し伝えている、ということがわかった、ということもあるのですが、
一番の理由は、毎日行うワークに疑問や違和感を覚えたからです。
もちろん、あくまでも私の場合です。

で、離れてから11ヶ月。
私は、自身の内側に存在する神的意識(と言われているもの)と繋がったことで、
それまで段階的な気づきによって理解してきた世界が一気に見え、
受け取るメッセージの裏側(真の意味)が理解できるようになり、
自分がクリアになったことで、
その本に書かれていたことや、そこから放たれているエネルギーなどもわかり、
端的に言うと、目に見えないカラクリ的なことがわかった(見えた)わけです。

その本には、確かに神聖なメッセージが含まれている。でも、
著者や出版に携わった人たちの強い信念、価値観、思想なども色濃く反映されている。
それ自体は何も問題ない。
そういう本はいくらでもあると思うし、
読者がそこを理解して読む分には、他のスピ本と大きく変わらない。
人によってはかなり興味深い内容とも言える。
でもそれを、
100%神聖なメッセージで綴られていると信じて疑わない、となると話は違う。
そうなると当然この本は神格化され、
そこに書かれていることが真理として正しく、そうでないものは間違っている、
という排他的な心理になってくる。
事実、表面上では全てを受け入れているかのごとく装っていても、
中身はまるでそうでない人々がいる。
もちろん何を信じても個人の自由だけれど、
そのような心理になっている自分に気づかなければ、いろんな意味で危険 だと思う。

ましてやこの本を神格化することで、
便乗商法的に営利活動をしている巧みな人が結構いるのだから(海外にも)、
やはり何事も、自分に都合よく見たいように見るのではなく、
あるがままを見る」意識が大切になってくるように思います。
※営利活動を否定しているわけではなく、冷静に見極める目が必要ということ。

また、あくまでも私の知る範囲では、この本に心酔している人の中で、
そこに書かれている霊的なメッセージを真に理解している人は、いない。
だから、どんなにそれを学び、知ったようなことを言っていても(書いていても)、
理解や解釈が非常に浅い。

それは、著者や出版に携わった人たちの信念や価値観などが多く混入されている、
というのもあるけれど、
一番の理由は、そもそも学んでいる当人が、
気づきたい、理解したい、知りたい、と思っていない。

真の気づきを避けている。
つまり、自分から逃げているわけです。
でも、自分から逃げている、なんて認めたくないから、それらを学んでいることで、
崇高な学びをしている特別な自分、
向き合っている自分、
逃げていない自分、
気づこうとしている自分、
気づいた自分、
などを演出し、周囲や自分を誤魔化している。
そうして、ポーズだけで自分を満たし、そこで満足しようとする。
だから、神の子どころか、むしろエゴが強まっている自分の姿にすら気づかない。

中には以前より、引き寄せを引き合いに出して、
この本(教え)との違いをもっともらしく解説している人もいるけれど、
人の受け売りや上澄みだけをすくった浅い解釈のためか、
自身がやっていることも引き寄せの範疇だということに気づいていないし、
そもそも引き寄せ自体には何ら問題がないことにも気づいていない。

まずは今の自分を認め、自覚する。
それだけでかなり違ってくるのですが、実際はそれすらも 赦さない
結局は逃げている自分を「悪」とジャッジしているから認められない(赦せない)わけです。

というわけで、周りや自分を誤魔化し、
自己逃避を正当化するためのポーズに用いているものを、
わざわざ題材にする必要はない、と思い改めたので、
今後の記事はそこまでマニアックになることはないかな?と告知しておきます笑


マルキラ☆何よりも自分に素直になりたいねマルキラ☆






いつもの資料です




表現することの難しさは、
見えない世界(しかも結構ややこしい)を言語化していく、というのももちろんあるけど、
本当にネックなのは、人それぞれで違う というところのように思います。

「自分を大切にする」といっても、
人それぞれで受けとめ方が違うので、
極端な例で言うと、
自己中心的な人はやっぱり自己中心的に都合よくその言葉を受け入れてしまい、
ますます自己中心的になるし( ̄_ ̄ i)

同じく、「人は体験するためにこの世界にいる」といっても
誰もが何でもかんでも体験すればいいというわけではなく、
中には「体験をしないという体験」が必要な人もいるし、
どっちにしても、
本来は 魂が望む体験をすることが大切 なので、
魂が望まない体験を無理にする必要はないのだけれど、
実際は、魂が望んでいない体験をしている人が多く、
それによってエゴを強めてしまっていることがある。

同じく、「①の喜びが決して②の喜びというわけではない」といっても
必ずしも辛いほうや苦手なほうを選択すれば=魂の選択か、というと、そうでもない。

そういう意味でも、人それぞれの能力や性質に違いがあり、
「その言葉」
が誰しもに当てはまるわけではないから、
そして、受け取った人の意識の違いで解釈が変わるから、難しい。

そんな中、
なぜ自分は幸せになれないのだろう、と思っている人がいます。
スピリチュアルと信じていることを忠実に学んでいても、
ワークを真面目に続けていても、
自分が受け取るものは相変わらず外側に左右された一過性のものであって、
真の幸福ではない、と。

もちろん、これも人それぞれだから、
以下に記すことが誰しもに当てはまるわけではないし、
そもそもがスピリチュアルや幸福といった概念を極端に捉えてしまっていたり、
他者の目的を自分の目的だと錯覚していたりして、
自分の魂を生きていないことに原因があったりもするのですが、
それに加え、心で感じることを恐れている 人がいます。

そのため、
常に答えを思考で見つけ、
思考で気づき、
思考の領域で納得するにとどまっている。

過去のトラウマが原因で、
心を使うことを無意識に避け、
思考で判断するという癖が根付いてしまっている。

だから、自分に合うか合わないか、という肝心なことでさえ心で感じることを無視し、
対象の肩書きや理屈のみを信じて結果を出そうとしてしまう。

心に囚われない、というのは、感じることを止めることではありません。
ちゃんと感情を味わい、心を働かせ、それらの機能を「知る」ことが大切です。
なぜなら、そのプロセスがあるからこそ、その先にある 囚われない に至れるからです。

全ては与えられているのだから、
それらを排除する必要はないし、その働きをストップさせることもない。
思考も心も感情もエゴも、それらとうまく付き合い、
バランスよく有効に扱うことが、魂を生きる ということです。

大切なのは、
②の自分を省いて①から④には行けないのと同じで、
それぞれに合ったプロセスだと思います。

なぜ自分は何かを排除しようとしてしまうのか、
なぜ自分は心で感じることを恐れているのか、
真の幸せを望んでいるなら、
誰でもない自分という唯一無二の貴重な存在と真摯に向き合い、
心の奥底にしまい込んだ 恐れの原因 が自分の中に「ある」ということをありのまま認め、
それらを癒す必要があるのかもしれません。

それと同時に、
他者と比較して「うまく生きられていない」 と自分を責めるのではなく、
目的や志しを持って生まれてきた自分自身を誇りに思い、
そのために今こうして生かされていることを感謝することも、大切なのだと思います。

人は、強い意志を持って生まれてきている 尊い存在 であり、
自分という人間は、自分自身の真実を生きることができる 唯一無二の 貴い存在
だということを、忘れないようにしたいです。







いつもありがとうございます♡
スピリチュアルに関する内容と言えども
こんなマイナーなブログに目を通していただき恐縮です。

このブログの本来の自分の記事は、
今の私が見えていること、受け取っていること、を書いています。が、
世の中で言われているようなワクワクすることではなく、
もしかしたら、抵抗を感じるような内容かもしれません・・・汗
この先は、さらにマニアック?になることもあると思いますが、
(加えて語彙が少ないため、うまく表現しきれないこともありますが
一種のファンタジーだと思って、気軽に読んでいただければ嬉しいです笑




スピ界ではいろんな言葉を耳にすると思います。
同じようなことを繰り返し聞くこともあれば、
矛盾したような、真逆とも思えるようなことを聞くこともあったり。

それは、幻想の中でも次元や意識レベルに違いがあるからそうなってしまっている、
とも言えると思うのですが、

そんな中で、私は以前、
「人は神と離れていない」に対し「人は神と離れてしまった」
「この世界は神が創った」に対し「この世界は神が創っていない」

といった感じで、真逆? とも言える言葉を聞いたことがあります。

以前の記事にも書きましたが、
私たちは、この世界を体験することで多くを学び、④に戻ろうとしています。
もともとはクリアで神聖な存在④なのですが、
物資的な世界を経験するために、
あえて「波動を下げる=肉体を持つ」ということをしています(つまり完全ではない状態に
あえてなっていて、学ぶためにはその状態こそが完璧だということ)。
本来はその状態が②で、
②の自分として物質世界を生きる(それぞれが個々の魂の目的とか願いを生きる)、
そして経験を通して それぞれに必要な学び をする、
そして学び終えたら④に戻る。
はずなのですが、
物質世界で心に囚われることで、余計なカルマをつくってしまい、
いわゆる心の中に執着が生まれちゃった、という感じで、
ザックリ言うと、
その執着のせいで、魂の願望を生きることを忘れてしまったり、
カルマを解消してもまた新たな執着が生まれたりして、
何度もやり直し(転生)をする羽目になってしまってる。 

というのが現状「①」です。

こうして人は、④から②になって、②から①になっているのですが、
実は、①の自分は②の存在を知りません。
そんな中、様々な知識から④の存在を知った①は、
④⇔① だと思っているわけです。

でも、厳密にはそうではないんですね。

④⇔② ②⇔① だから、④と①は、直接つながっていないのです。

そのため、既述した「人は神と離れていない」は②のことを指していて、
「人は神と離れてしまった」というのは①のことを指している。
同じく、
「この世界は神が創った」というのは②の世界を、
「この世界は神が創っていない」というのは①の世界を指している。ということです。

私は無宗教なので、神をどのように捉えるかという問題はあると思いますが、
ここでは、宇宙、源、創造主…などと言われている大いなる存在、
または④のことだと思ってくださいキラキラ☆

というわけで、今見ている①の世界に④は直接関与していない、ということなのですが、
じゃあ、この①の世界は、誰が(何が)創ったのか?というと、
肉体を持つこととなった②が 心に囚われたことで創られた ということになります。

なので、前回の記事「心とスピリチュアル」にも書いたように、
①の世界は魂よりも心の囚われや執着のほうが強く反映している世界、
言いかえれば、それだけエゴ(自我)が強く反映されている世界、とも言えるので、
②から離れれば離れるほど、
エゴとうまく付き合うことが出来ず、エゴに支配される関係となり、
さらにその関係が強くなると、エゴにコントロールされていることに気づかず、
アヤシイ団体の教祖様?のように、
むしろ自分こそが神(創造主)だと錯覚してしまうことがあります。
それは実際に、心の囚われ(エゴ)が①の世界を創っているため、
エゴの力が強くなるほど、自分がこの世界を創っている、という感覚も強くなるからです。
(だからと言って①のエゴを映し出している他者を、
自身の内側が創り出した投影だと認めないのもエゴなので、そのへん注意が必要ですが

確かに私たちの本質は④なので、
そこから生まれた②の自分は、
神と言える存在と常に繋がっているし、創造の力もあります。
ですが、本来の純粋な②は、
それらは全て④、もしくは大いなる存在から与えられている、と知っています。

だからこそ、心の働きを強めるためにではなく、
魂を磨く霊的な成長のためにその力を使わせていただくという気持ちに自然となり、
自身の創造の力を前に、意識せずとも謙虚になれる、ということです。

また、スピ界では「幻想を超えた真実の世界には愛と喜びだけがある
ということをよく言われていたりしますが、
④と②を混同しているためか、中には、苦しみが無くなり、
愛と喜びだけを受け取れるかのごとく表現されている場合もあって、
現状が苦しい方にとっては特に、とても魅力的に感じる言葉になってしまっているのですが、
実際は、①から②に戻っても、肉体を持つ私たちは、愛と喜びだけというわけにはいかず、
困ったこともあれば、痛みや苦しみも当然あります。

ただ、②の自分は、
「生かされている」という自身の存在の意味を深く理解していることから、
心よりも魂で生きている、という感じなので、
②を生きることが=魂を成長させる=④に戻っていく、という喜びであり、
さらには④と繋がっていることで、
心の囚われよりも、内なる安心感や温かさに満たされています。

「それ」はとても静かなもので、
①のような、何らかの刺激や外側の働きによって得られる喜びや安心感ではなく、
自分自身が「それ」であり、また、「全ては与えられた」という慎み深さでもあり、

そのように、②の世界は、
①の思考や心で感じる「愛と喜びだけの世界」とは異なります。
なので、①が感じている「愛と喜びだけの世界」というは、
あくまでも①の中での引き寄せ的なことで得られているもの、
あるいは思考を使って 見たいように見ている(①が強くなるとそうなる) 場合が多く、
引き寄せが悪いという意味ではなく、単に 真の目覚めや覚醒とは異なる ということです。

長くなったので、次回に続きますクローバー







今日も引き続き、
かなりアバウトにまとめた以下の資料(私たちが知るべき最も重要な存在)
と 共に読んでいただければ嬉しいですにぱっ☆





同じ肉体を持っていても、①の世界と②の世界は、厳密に言うと違います。
実は、心理学で言われている投影や鏡の法則などは、
②の世界(本来の自分)にはあまり関係ない、と言えます。

次元が違うというか、心と魂は別物というか、
心理学とスピリチュアルは混同されていないというか、
①と②は、そのような、似て非なる世界だと言えます。

あくまでも私の見解ですが、
本来の自分②から離れれば離れるほど、
心理学で言われている投影などが強く作用されるように思います。
また、それらにとらわれることで強く影響されてしまいます。

逆に言えば、本来の自分に近ければ近いほど、
それら(投影など)を感じなくなります。
つまり、本来の自分の内側と、この世界で起きていることは別物で、
他者や外側に自分自身の心を映し出している、ということが
真実ではない(本来の自分には関係ない)ということに気づきます。

②の自分に投影を当てはめるなら、
基本的に自身が設定した目的や願いをこの世界に投影している、という感じで、
かなりザックリな表現ですが、
②の自分は魂(の願いや目的)が強く反映されているけど、
①の自分は心(のとらわれや執着など)が強く反映されている、という感じです。

人の心の中には、たくさんの思いがあります。
ネガティブなものもポジティブなものも。
①の世界は、それらが全部映し出されている世界。そして、
多くの①が映し出したその世界(心の世界)に翻弄されているのが、①の自分。
※ちなみに①にとっての喜びと②にとっての喜びは違っていたりもするので、
厳密には①が感じる喜びも「翻弄されている」に入ることがあります。


でも②の自分は、その世界にいながらも、そこに左右されていないというか、
心を超えたところに存在する「内なる真実④」と繋がっているので、
自分は誰か、真実は何か、ということをわかっています。
そのため、①のような、心に翻弄されるということがなくなります。

私は以前、心とスピリチュアルを同じように思っていたのですが、違っていました。
心の働きについてを知ることは大切なことでもあるのですが、場合によっては
本来の自分②ではなく、①の自分を強めてしまうことがある、とも思います。

①の自分が強くなればなるほど(心理や投影にとらわれるほど)、
心を強めてしまうため、心がメインとなって
正しい判断(本来の自分としての霊的な判断)が出来なくなることもあります。

だからこそ、①の自分にとっては心の働きを知るためのツールやメソッドがやはり重要で、
この辺、ちょっと矛盾するようにも感じますが、
どのような意識でそれらを使うかで、
とらわれや執着を外し、本来の自分に近づくための 気づき をもたらしてもくれます。

実際は②の自分に戻ったとき、
それらが一切関係なかったことに気づくのですが笑
①から②に近づくための手段として、
バランスよく活用することが大事なのだと思います。

そうして、魂が求めている世界は①ではなく②だということを本当の意味で気づいたとき、
自身の内側で心理を超えたスピリチュアルな世界が開かれ、
霊的な自分(②)を思い出すことができ、
その、②の自分と一体化することで、
心の問題(①の自分)についても解消されることになります。

本来の自分に戻ると、「生かされている」という意味が本当にわかります。
全てを与えられている」ということも心の底から実感できます。

この世界が自身の霊的成長にとって、とても大切な場所だということも、
そのために全てを与えられていて、こうして生かされているということも、
どれほど有難いことか、深い感謝の念に満たされます。

そして、せっかく与えられたこの人生を、無駄にはできないとも思います。
ここで言う「無駄」とは、本来の自分として生きられない、ということ。
この世界は、霊的な成長や進化のために与えられた場なのに、
多くの場合、本来の②から離れて①の自分で生を終わらせてしまうため、
真の願いが叶わないまま転生を繰り返してしまいます。

それって本当は、とても寂しいことなんですね。
何のために人としてこの世界を選んだのか、その、真の目的が叶っていないわけですから涙
何をしても自由だし、何を選んでもいいのですが、
それらを「②の自分ですること」が大切なのだと思います。

霊的成長のために与えられたこの世界を、
心にとらわれるのではなく、魂の願望を生きるために活かすことができれば
どんなに喜ばしいだろうと、そう思います。






目に見えない世界は形があるものではないので、
それを言葉にするのは難しく、うまく表現できないことも多くあります。
そんな中、この先の記事は、ますますややこしくもあり、
今までよりもさらに①を非難しているかのように思われてしまうかもしれません。
というのは、ここで言う「①の世界」と「②の世界」には微妙な違いがあるからです。

まとまりがなく誤解を招くような表現があるかもしれませんが、
私がここで書いていることは、
「②の自分を基準にして①を見ている」と思っていただければ嬉しいです。





前回の記事で、①の自分は何も知らないと書きました。
②の存在を知らないから、外からの情報や机上の知識でのみ④を知ることになる、と。

そうなると特にスピ界では、無理に愛を表現しようとしてしまいます。
それは、④と繋がっていない①の自分で を捉えてしまうからです。
また私たちは、「相手の立場になる」「相手を理解する」「否定しない」という言葉も
①の自分で捉えてしまい、さらには
ありのままの相手を否定せずに認めることが正しく、
ありのままの自分を否定せずに認めてくれることが愛されていることだ、

ということも、①の自分で解釈してしまいます。

以前の記事でも、①の自分で捉えるか②の自分で捉えるかで解釈が変わる、
と書きましたが、今日の記事はそのことをもう少し深く書いていきます。

カウンセリングなどを学ぶと特に、
相手(クライアント)を否定しないこと が基本となっていたりするので、
そこにスピリチュアルが混ざることで、それこそが だと思われてしまうようです。
でもそれは、確かに相手の「」を尊重しているとも言えるのですが、
それと同時に 相手が自分を信頼して心を開いてくれるため でもあって、
自分を信頼してほしいという思い(見返り)が隠されている一つのテクニックとも言えます。

それが悪いというわけではなく、それらが一般にも広がることで、
相手を否定すること=悪いこと・愛がない行為
という価値観が生まれ、
物事をあるがままに見ることができず、
偏った見方になってしまったりする、ということです。

これは自分に対してもそうで、
こういった価値観があると、自分のこともあるがままに見ることができなかったりします。

そもそも、「あるがままを見る」とは何なのか?
このブログでも前からずーっと「あるがままを見る」ということを何度も書いてきましたが、
それは、良いも悪いもなくただ純粋に、
自分や相手をそのままの状態で見る。つまり、
本当の意味での「否定しない」ということだと思います。

どういうことかと言いますと、
①の自分は、人の本質は④だということを頭でしか知らないので、
ありのままというのは、④なのだから、その人の④を見ることが
ありのままあるがまま だと思っています(というかそのように思うことが愛だと思っている)。

だから、相手をそのままの状態で見るのではなく、
相手の内なる神聖に目を向けて相手を見る
ということが正しい愛の見方であり、それが 否定しないこと だと思っています。

でもこれは、この言葉を①の自分で解釈してしまっているが故の
思い込みとらわれ なんですね。

なぜなら、実際の相手は①だからです。
つまり、今自分が見ている相手の「そのままの状態」「あるがまま」というのは、
④ではなく①なんです。

②の自分は、相手の本質が④であることを知っています。
知識や情報ではなく、自身の内側の純粋な意識(魂)でわかっています。
だからこそ、相手が本来の姿(②と④)から離れ、
何にとらわれて①になっているのかが見えるわけです。
なので、相手がとらわれている状態を否定せず、それを認め
①の状態を そのままあるがままありのままに見ている、ということです。

たとえば、これを医者でたとえると、
②の医者は、患者の体の異常をそのまま否定せず、ありのままに受け入れて、
健康時の数値と比べながら、適切に不具合を見てくれる。

でも①の医者は、人の体は本来健康なのだから、たとえ異常があったとしても
それは本来の姿ではない。だから健康な体を否定しないことが患者への愛だ。
として、不具合を見てくれない。

といった感じです。
②の医者は、健康な体を否定しているわけではありません。
そもそも、患者がもともとは健康であることは十分承知しています。
そのうえで、今の状態(不具合)をありのままに見ているので、
患者の体の健康な部分と、そうでない部分とを把握し、対象をそのまま見ているのですが、

①の医者は、人っていうのは健康な姿が正しいから、という考えにとらわれ、
不具合に目を向けるのは健康な状態を否定していると履き違えることで、
むしろ、目の前の患者のありのままの状態を否定しているわけです。
その根底には とらわれによって、あるがままを受け入れられない 恐れ があるからです。

このことを前半の中で述べた
相手の立場になる
相手を理解する
に当てはめると、相手の立場とは?相手を理解するとは?というのが、
①の自分と、②の自分とでは、大きく解釈が変わることがわかると思いますし、

ありのままの相手を否定せずに認めることが正しく
ありのままの自分を否定せずに認めてくれることが愛されていることだ

というのも、本当の意味での「否定しない」「認める」「愛されている」がどういうことか、
理解が変わるのではないかと思います。

これは相手だけでなく、自分にも同じです。
「あるがまま」というのを都合よく履き違えていると、
自分と向き合うときにも、自分のことをあるがままに見れません。

誤解なきよう補足しますが、
これは、ただ単に自分や相手のネガティブにフォーカスしろという意味ではありません。
誰もが清い心を持っていることは知っています。
本来の姿が②であることも知っています。
そのうえで、今の状態 をそのまま否定せずに正しく見る。そして受け入れる。
そうすると、表層意識では喜んでいても、魂が喜んでいないことがわかります。

何にもとらわれていない②の自分から①の自分を見て、
魂の喜びを生きる②の世界から①の世界を見る。

そのような意識が必要だと思います。
それが、②③④が持つ①への でもあります。


長くなりすぎたので、続きは次回にハート