本来の自分に戻って魂を生きる -3ページ目




前回の記事で、
肉体や思考や物質などは、④の次元では無価値であっても、
この世界(次元)を生きる私たちにとっては必要なもので、
必要だから与えられていると書きました。

それと同じく、
スピ界では、エゴについても一様に「悪もの」扱いされることがありますが、
本来、エゴも必要だからあるのです。
私たちは、個として自身が体験すべきこと、体験を通して知るべきことがあるから
この世界を生きています。
そういった「個の意志=エゴ」が無ければ、魂の願望を生きられません。
つまり、そのエゴは、「魂の成長=全体の霊的進化」のためにあるのです。

とはいえ、エゴにもいろいろあるので、
当然、魂の成長を妨げるエゴもあります。

あくまでも私の感覚でかなりザックリとした説明になりますが、
基本的に②の状態の時のエゴは、純粋な高次元のエゴです。
それが外の世界と触れ合うことで、
自身の内側ではなく外側を意識したり、外側に影響されたエゴへと次第に変化(下降)し、
すっかり当初の内なる目的(意志)が見失われ、
しまいには変化した低次元のエゴに支配される関係になり、
さらには「エゴが無くなった」とさえ勘違いしてしまう。

エゴをこんな単純な解説で終わらせるのは言葉足らずですが、
見えない世界に次元があるように、
エゴにも次元があって、そのうえ多種多様、といった感じです。

そんな中、スピ界では、
「神の意志を生きる」「聖霊の目的のために自分を使う」
と言う方がいます。
もちろん、言葉だけでなく、それがどういう意味かを心で知っている方は、
それを生きることがその人の真実だと言えます。
というのは、神の意志、聖霊の目的とは、
言い換えれば その人の本来の魂の目的(高次元のエゴ)だからです。

当然ですよね、霊的な存在である本来の私たち②は、
内なる神④や高次元の存在③と繋がっているわけですから、
そんな私たちの純粋な意思(魂の目的)とは、それが何であれ
そのまま神の意志、聖霊の目的ということになります。

これがもし、言葉通りに④や③を生きることが私たちの本来の目的なら、
そもそも人としてこの次元に生まれてきていないし、
この場所を選んだ自分の魂の意志を信用できないということは、
自分が神聖な④から延長(分霊)された貴い存在だということを信用していない、
ということでもあります。

でも、私が知る範囲では、
「神の意志を生きる」「聖霊の目的のために自分を使う」と言ってる方に、
神の意志とは何か?聖霊の目的とは何か?を知ってる方は、いません。
ただそうすることが エゴが無い愛の状態、ワンネス だと思い込み、
それが美しい生き方、崇高な生き方だと錯覚しているだけです。

そもそも神の意志、聖霊の目的を生きるというのもエゴです。
それを生きようと(意志)しているのだから。
しかも、それが何を意味するのか真にわかっていないとなると、
そのエゴは、魂からすれば、とても的外れな低次元のエゴとなります。

自身の内側(魂)が何を求めているのか、その真実(目的・意志)から目を背け、
ただただ言葉や外側に影響されて、
神や聖霊の名を使う(利用する)ことで、
自分を美しく飾ろうとしているだけだからです。
そうやって自分の中の無価値感を優越感で誤魔化し、
低次元のエゴを喜ばせているだけだからです。

「正しさではなく喜びを選びましょう」と言っていても、
低次元のエゴを喜ばせていては本末転倒です。
正しさとは①ではなく本来の自分②を生きる(選ぶ)ということです。
なぜならそれこそが魂の喜びだからです。

本当に自分の魂が 神聖な存在から延長(分霊)された貴い存在 だと知っていれば、
その魂をないがしろにはできません。
本当に全体の進化を意識していれば、
個の役割(自分の魂②を生きること)がどれほど全体にとって大切か、心が知っているので
一様に「エゴ=悪」だと錯覚することはないはずです。

④から分霊した③や②にはそれぞれの意志(高次元のエゴ)があります。
③ですらあるのです。
本来の②は、③と同じく内側で知っています。自分がこの世界(次元)で何をするべきかを。
だからこそ生まれる前に決めてくるわけです。
③には③の次元での役割があるように、②には②の次元での役割があります。
そうして、全体の中の個として、それぞれが全体を創造しているのです。

そのような自身の魂の貴さに気づかなければ、
いくら美しい言葉で自分を飾っても、
低次元のエゴを輝かせているだけで、魂は一向に報われません。
魂が報われないということは、④と③を裏切っている、ということでもあります。

その状態が続けば魂は曇っていきます。
輝きが失われてしまうのです。
なにがあっても魂は汚れない、と思っていたら大きな勘違いです。
生まれる前に交わした約束から逃げられ、放置され、さらには逆行され続けた魂が、
いつまでもイキイキと輝いているはずがありません。

幸い、この世界には本来の自分②に近づくツールやメソッドが沢山あります。
もちろん、その逆に本来の自分から遠のく教えやメソッドもあります。
また、どんなに良いツールやメソッドでも、
教える側や使う側の意識で、その効果も変わってきます。
全く同じツールを使っても、②に近づく人もいれば、
②から離れて低次元のエゴが優勢になる場合もあります(本人は気づいていないけど)。

そういう意味では、ツールやメソッドが何かをしてくれるわけではなく、
自分がそれらをどのように使うか、なので、何が良いかは一概に言えないけれども、
今の自分を客観視して 本当に よく観察していれば、
今よりも次元が下降していくことはないし、
その時の自分に合ったツールやメソッドを併用することで、
魂を輝かせることが出来るということです。

源から授かった自身の貴い魂を輝かせるのは自分です。
そのためには、自分の内面から逃げないことが大切だと思います。










人は皆、肉体を授かった霊的な存在。
ですが、次元が下降することで、そのことを忘れてしまいます。

でも、本来の霊的な私たちは知っています。
崇高かつ神聖な源から分霊したことも、
この世を体験することで魂を成長させていることも、全体を進化させていることも、
そのために必要なものが与えられていることも、生かされていることも、知っています。

なので、自身の魂を裏切るようなことはできなしい、
全体(=個)の霊的進化を妨げるようなこともできない。
それほどまでに私たちは、全体にとっても、源にとっても、貴い存在なのです。

でも、肉体を持ち(授かり)、物質世界を生きるうちに、
心に囚われ、カルマに引っ張られ、外側に執着し、
本来生きるべき次元だった②ではなく、そこから下降して①の次元を生きてしまいます。
そうして、次元が下がれば下がるほど、
エゴが強くなり、霊的な自分を見失ってしまうのです。

時にスピ界では、
高次の存在から受け取ったメッセージを、
受け取り手が霊的に理解することなく発信し、
その言葉が一人歩きすることで、
それを知り得た人たちが、霊的な解釈をできないまま言葉を額面通りに受け止め、
その通りに生きることが霊的な生き方だと勘違いする場合があります。

そのせいで、肉体や思考や物質などを、無価値なものと判断されることがあります。
そうなると、自身の心が囚われているのを、
肉体や思考や物質など、外側のせいにして、それらを排除しようとしてしまいます。

確かに④の次元では、肉体も思考も心も物質も、
この世界で必要とされているものが必要のない次元です。
当然、何の価値もありません。
それは、次元が違うのだから当たり前のこと。
でも、そこから分霊してこの世界を生きている私たちには、全て必要なものです。
必要だから与えられているのです。

私たち一人一人に「真実」があるように、
それぞれの次元にも「真理(法則)」があります。

私たちが他者の真実を生きられないように、
肉体を持つ私たちが、③の次元や④の次元の真理を生きることはできないのです。

人は、この世界を体験する必要があるからこそ、今ここにいます。
そのために与えられたものは、有難く受け入れ、
そこに執着したり囚われすぎるのではなく、
魂の成長のために、本来生きるべき次元で有効に使わせていただけばいいだけです。
確かに私たちの心は、外の世界と触れ合うことで変化をするけれども、
それを決めているのは、自分の心です。
自分の心が囚われていることを、
天から授かったものに責任転嫁するのではなく、
自分の心が自身の在り方を決め、
生き方を決め、
生きる次元を決めている(決めていける)のだと、
意識を目覚めさせることが大切だと思います。

また、次元が低くなればなるほど、自分や他者を正しく見ることが出来ず、勘違いします。
エゴが満たされているのを、魂が喜んでいると錯覚し、
虚栄心が満たされているのを、愛を生きていると錯覚します。
そうして知らぬ間に、自分の心や魂を欺き、全体の霊的成長をも妨げるのです。

善悪はない。正しいも間違いもない。
その言葉は、与えられたこの生を、純粋に懸命に生きている者にこそ相応しい言葉。
自らの魂を裏切り、誤魔化しながら、偽りながら生きている者に、
それら霊的な言葉が通用するほど、見えない世界は甘くない。

私たちは、いくら自分を誤魔化し、本来の②から逃げていても、
本当の意味で自分から逃れることはできません。
そして、真理からも逃れることはできません。
その代償は、あとで必ず自分が支払うことになります。
それは、たとえ今世でなくとも。

今の自分が未来の自分を創ります。
今の自分が既に全体を創っています。

それが本当に  魂が望むことなら
正しいも間違いもなく、何をしていても自由だと思います。







スピ界では、いろんな方がいろんな言葉を発信されていますが、
中には、美しい言葉や魅力的な言葉を用いることで、
自分の不安や恐れを誤魔化している方もいます。

それはそれで、本人が納得しているなら別に良いと思いますが、
中には、自分を誤魔化すだけでなく、
自分だけが不安や孤独を抱えているのはイヤ!という恐れから、
周りも自分と同じでいてほしい、という自分の念(願望)を満たすために、
スピ的な優しい言葉を使って、
自分と同じく周りも恐れや不安を抱えたままでいるように、
自分だけが取り残されないように、
無意識に 周りに暗示をかけている場合もあります。

無意識なので、本人はそんな自分に気づいていませんが、
そこから放たれるエネルギーはとても正直です。

「全てが完全で完璧です」
と言っていても、
実際は心の奥で、なぜ自分だけが?とこの世の不公平を嘆いていたり、
「世の中には正しいも間違いもないのです」
「間違っていてもそれすらも正しいのです」
と言っていても、
心の中には常に被害者意識、犠牲者意識があって、他者を裁いていたり。

それが悪いのではなく、
そのような自分の心をスピ的な言葉で偽るのではなく、
ちゃんと気づいてあげることが大切だと思います。
そうすれば、無意識に美しい言葉で自分を飾り(偽り)ながら、周囲を安心させ、
一緒に自己逃避する仲間を増やそうとすることもなくなるはずです。

私たちに出来ることは、言葉や情報を盲信しないことだと思います。
もちろん私のこのブログもそうです。
それを発信している者が、どのような心の状態で発信しているのか、
冷静に見極めることも大切だと思います。
その言葉が、どこにも偽りがない、まっすぐで正直で純粋な言葉(エネルギー)なのか、
それとも、自分や他者を誤魔化した偽りの言葉(エネルギー)なのか。

ちなみに、私が繋がっている高次の存在③は嘘をつきません(当たり前ですが)。
とにかく 清い
ほんとに 清い
甘い言葉なんて使いません。
必要のないことも言いません。
でも、厳しさを感じない。
それは、事実しか言わないから。
私のために、全体のために、事実しか言わない。
だから、とても優しく、温かく、頼もしく、愛があるのです。

その清さを目の当たりにすると、
自分はまだまだ偽ってるなぁと思えるほどです。
遠慮しているし、本当のこと(見えていること)を相手に言えない時がある。
それはそれで、人の世界には人の世界のルールがあるので、
「事実しか言わない」のが必ずしも正しいわけじゃないし、
隠すことの偽りが相手への優しさになる時もある。

でも、その優しさ(偽り)が、
「自分を良い人に見せたいから」という自己本位なエゴならば、
やはり私は、そのエゴを素直に認め、受け入れ、
そこから 清さ のほうを選んでいけるようになりたい、と思っています。

また、冒頭の図でいう④は、「高次の自分」と書いているから、
よく耳にするハイヤーセルフと思われるかもしれませんが、
というか、ハイヤーセルフの捉え方によっても解釈が異なると思いますが、
ここでは、神的意識 というのが一番近いように思います。
なので、その言葉をつけ足しました。

かなり前の記事にも書きましたが、
クリア過ぎて意識すらない、といった存在です(あくまでも私の感覚)。

クリア過ぎて美しい。
クリア過ぎて一点の濁りも感じない。
クリア過ぎて発光しているかの如く眩しい。
その眩しさがあたたかく、そのクリアさが冷静かつ静寂。
そして、一点の濁りもないその濁りのなさが、一つの条件をも感じさせない。
その条件のなさが、無条件の愛をも感じさせる。
汚れが浄化される。究極の癒しを感じる。深い懐かしさも感じる。
その存在の全てから、果てしない安らぎを感じる。
もう何もいらない、もう十分、もうこのまま消えてもいい、と思えるほど、
自分の全てが、あらゆる全てが、満たされる。

ただこれは、私が感じた(受け取った)ことであって、
④自体は何もしていない。
つまり、感じさせようとも、与えようともしていない。
ただその存在として、そこにあるだけ。
そこにあるだけで、「いてくれてありがとう」と、深い感謝に包まれる。

メッセージをくれるわけでも、導いてくれるわけでもない。
ただそこに「ある」だけで、④は何もしない。

でも、思い出させてくれる。
私が誰かを。
なぜこの世界を生きているのかを。

私が④と一体になることで、
そこから分霊したときの意識を蘇らせてくれる。
だからこそ、個の大切さがわかる。
人として、この世界を生きる意味がわかる。

個として、人として、本来の自分②を生きることが、正しい道だったのだと。

そこに、自分の知るべき答えがあり、それこそが苦しみから解放される道なのだと。

そのために、今、こうして、私たちは、生かされているのだと。





私たちは肉体を持つ霊的な存在としてこの世界を生きているわけですが、
見えている世界は同じだけど、その中にはいくつかの次元があって、
このブログでは、大きく分けて①と②でそれを表現しています。





もっと細かく言うと、
①の中にもいくつかの次元があり、②の中にもいくつかの次元があります。

肉体とか住んでいる家とか、見た目は何も変わらないけど、
次元(意識レベル?)が微妙に異なっている、ということです。

ピッタリな表現じゃないけど、そんな感じ、という感じです。

次元が低くなればなるほど、いわゆるエゴとか煩悩とか、
そういった執着が強くある状態なので、
それらが強くあればあるほど②から遠い①になる、ということです。

私たちは基本的に、肉体から離れる時に、執着も外れるので、
この世を去ったあとに気づくわけです。
ああーーー!なんであんなことに囚われてたんだろう!?と。

たとえば、無意識の領域で常に人と張り合っているような競争心の強い人は、
人(ライバル)のことばっか気にして全然自分(魂の目的)を生きてなかったΣ(゚д゚;)
となるわけです。

承認欲求が強すぎて自分を大きく見せようとしている人は、
人の目ばかり気にして本来の自分を見失っていた( ̄□ ̄;)!!
となるわけです。

こういった気づきは、
肉体を持つことで負のカルマや心の囚われに引っ張られてしまい、
本来生きるべき②の自分から外れてしまったが故の後悔(気づき)なんですね。
それほど人は、外側に囚われて自分のことを見ていない(気づいていない)ってことです。

後悔することがいけないわけではありません。
生きているうちに気づけば、その分早く次のステージ(体験)に進める、ということです。
魂はそれを望んでいます。
そのために人としてこの世界に生まれてきているからです。

ちなみに、肉体から離れても気づかない魂(人)もあります。
大なり小なり執着や囚われが外れない、ということです。
通常の魂が「今度こそ魂の願望を生きよう」と決意(改心?)して生まれ変わるとしたら、
執着が外れていない魂は、
端からその執着を完遂させるべく生まれ変わっている場合があります。

そういう感じで、魂のズレや状態?が見えたりするから、
「今のままでいい」「何を選んでもOK」とは、そう易々とは言えないのです(´・ω・`)

魂には人それぞれのステージ(自分だけの真実)があります。
自分のステージを生きることが、魂(②)を生きるということです。
これは、等身大の自分を生きる、身の丈に合った自分を生きる、という意味でもあります。
なぜならそこが自分のスタート地点だからです。
スピ界には、自分の魂のステージ(スタート地点)から逃げて、
④に行こうと、そのようなスピ的学びに走る人もいますが、
②から逃げている以上、
「そのような学びを頑固に行おうとしても、
あまりに多くの時間と意志(魂)をそこで無駄にすることになります。
つまらない事柄でがんじがらめになっていれば、意志(魂)は自由にはなれなません。
それは決してそこ(①)から抜け出られない」ということです。

前回の記事でも書きましたが、
私たちは自分の本来のステージ②(魂)を求める(選択する)ことが大切です。
何もしない自分に代わって高次の存在や聖霊がそれをしてくれるわけではありません。
自分が求めるのです。
なぜなら、そこから逃げているのは自分だからです。
求めよさらば与えられん、というように、
自分がそれ(②の自分)を求めなければ、それに相応しい結果は与えられません。

それに、②の自分から逃げている以上は、
スピリチュアルなメッセージを本来の霊的な解釈で受け取ることはできません。
どんなスピ的学びをしても、逃げている以上は理解できていないということです。
また、それが神聖なメッセージかどうか、というエネルギーも感じ取ることが困難となります。

私たちが高次の存在(③)と繋がってメッセージを受け取るとき、
万人に合ったメッセージもあれば、個人へのメッセージもあります。
個人へのメッセージの場合は、
当然その時のその人個人の在り方に合わせたメッセージになります。
それは、人それぞれで性格や能力、
さらには魂の目的や願い、役割などのステージが異なるからです。

また、受け取った側の心の状態によっては、受け取ったンスピレーションを
高次の存在からの深いメッセージだと神格化する場合もあります。
たとえば、日常の些細なことにまでいつも神経をとがらせ、そこに囚われて、
せっかく授かった時間を有効に使えていない場合、
「些細な事柄に関しては考えることを止め、いちいち深く考えないで
直観で決める」というインスピレーションを、
重要性のない事柄については『私』が指示を与えるからそれに従いなさい と、
誰もが知る有名な高次の存在から受け取ったものとし、
自分の知識(思考)を通して前後に様々な言葉を入れながら表現されることだって
いくらでもあるわけです。
また、それを実行した(直観に従った)ことで起こったシンクロを、
有名な高次の存在が見せた「奇跡」だと捉えることもあります。

いずれにしても、
仏陀の対機説法(応病与薬)と同じく、
仮にそのメッセージが高次の存在からのものであったとしても、
必ずしも万人に向けた真理というわけではないのです。

理解できていないものを理解しているかの如く自分や周囲を誤魔化すのではなく、
自分の魂が何を望んでいるのか、
そこに気づいてあげることが何よりも大切だと思います。
それこそが私たちが知るべきことだからです。






前回の記事で、
そもそも気づきたいと思っていない、自分から逃げている、ということを書きました。

だからいけない、と言ってるわけではありません。
自分に気づくことが大切、ということです。

今の自分は、
特別な教えを学んでいるという行為に満足したいのか、それとも、
依存することで安心したいのか、それとも、
周りにすごいと思われたい、認められたい、崇められたい、勝ちたい、という
承認欲求を満たしたいのか。
それとも、その他なのか。

もちろん、ただ純粋に、真実を知りたいと思っているのかもしれない。
でも、私が受け取っているエネルギーからは、
真実を知りたいというよりも、その他の思いのほうがはるかに強く感じます。

承認欲求は誰にでもあるものだと思います(特に①の自分は)。
でもそれが強くあると、
得たものや知ったものを活かす方向性が、
本来のそれとは変わってしまう、と私は思っています。
また、得てもいないものを得たかのように振る舞うこともあるように思います(無意識に)。
そうなると、人の信頼を得られなくなる可能性がある。
認められたかったはずが、むしろ信用を落とす結果になってしまうこともある。

得ることは大切だけど、それと同時に、何のために得ようとしているのか?
そこをしっかりと自分で知ることも大切だと思います。

今の自分に気づくというのは、
自分の状態を確認するということ。
もし、承認欲求が強くあるなら、その自分をそのまま認めること。
善悪のジャッジをつけずに、その状態を知ること。
よく、ダメな自分にもOKを出す、と言われていますが、
私は、無理にOKを出さなくてもいいと思っています。
ただその状態を知って自覚すればいい。そう思っています。

知った後も、消そうとしなくていい。
なぜなら消えないから。その次元にあるものだから。
だから、それはそれで、存在したままでいいのです。
そして、「ある」ことを認めた(許した)上で、
本当にそれが必要なのか、ほかにもっと大切なものはないか、
そこで初めてジャッジをして、
たくさんの「ある」中から、本来の自分にとって必要なものを選択すればいい。
※ブロック解除などのツールは潜在意識の領域でそれをしている感じです。

つまり、「ある」ものの中で、魂が喜ぶものを選べばいい、ということです。

その時、意識して愛を選ぶ必要はありません。
それが正しいと認識していると、
結局は自分が考える愛の形に囚われた選択になってしまいます。
世の中には、愛を選ぶことを教えていながら、
自分は純粋な愛を選んでいない見せかけの指導者もいます。
耳触りの良い言葉に惑わされるのではなく、
本当に自分の内側が必要としていること、それを選択すればいいと思います。

本来の自分が選んだものこそが、自分への愛であり、他者への愛でもあります。

自分に代わって高次の自分やガイド、聖霊が選んでくれるわけではありません。
選ぶのは肉体を持った自分です。
そのために肉体を持ってこの世界を選んだのだから、
自分がそれを求めるのです。

今の自分の状態を知るのは、そのためです。
正しい選択ができるようになるためです。
言い換えれば、「今の自分を知らないと正しい選択ができない」ということです。





④を意識できた②は、承認欲求が無い、と言っていいぐらいありません。
それは、「自分が誰か」を知っているからです。
そして、「他者が誰か」も知っています。
それぞれがそれぞれの魂を生きる存在だということを、充分に知っています。
そして全体の調和の中で、個として全体を創造していることも知っています。

無理にワンネスを意識しなくても、もともとは一つだと知っています。
無理に幻想を超えようとしなくても、全て(①~④)が幻想だと知っています。
無理に過去や未来、時間は存在しないと意識しなくても、
無理に自分や他者は存在しないと意識しなくても、
もうすでに知っています。幻想だと。

それを知ったうえで、人として、肉体を持ち、この世界を生きているのです。
幻想の中のリアルを体験するために、時間も他者も存在しているのです。
全ては体験を通して「知る」ために、用意(創造)されているのです。
私たちは、それらを有効に用いて、霊的な成長や進化を遂げようとしています。

ワンネスとは、個を消すことではなく、
むしろ純粋な個として、自分の魂を生きることがワンネスだと思います。
そのために個になっているのです。

だからこそ、全体のためにも自分のためにも、
どのように個を生きるか、そのプロセスが大切なのだと思います。