言葉にはその人の心がよく表れているけれども、
必ずしも「そのまんま」表現されているわけではない、と思うことが多々あります。
自分の内側の見たくないものを隠したいから
そのような言葉、そのような行動を、無意識に選んでいる場合があると。
そういう意味で、
言葉では 幸せ アピールをしていても、
心の中は、いつ自分から人やお金やパートナーが去っていくかと
不安や焦りでいっぱいだったり、
謙虚さ をアピールしていても、
心の中は、自己顕示欲や承認欲求が強かったり、
愛や光 をアピールしていても、
心の中は、とてつもなく打算的だったり、
といったこと感じることがあります。
人の心は巧妙で、
無意識の中にあるものを見ないように(気づかないように)、
うまく誤魔化したりするのだと思います。
別の動機を使って、それを本物と思わせたり。
例えば、
人に気を遣って本来の自分を出せずに生きていた人が自分と向き合い、
少しずつだけど自分を大切に出来るようになったし、自信も持てるようになった。
自分も人を癒したい、人に伝えたい。
そうしてカウンセラーやセラピストや講師になった。
もちろんそれは素晴らしいこと。
でも、その人の深層意識には、他者への強烈な支配欲がある…とすると。
カウンセラーやセラピストや講師になることで、
その支配欲を満たそうともしている。ということだってあります。
あくまでも例えばの話ですが、
こういう 隠れた願望 には気づきにくい。
見たくないんですね。
なので、潜在意識の中の別の理由を当てはめようとする。
別の理由といっても本人の中にあるものだから、
本人からすればその理由に納得できるし、腑に落ちるわけです。
こうして、別の動機を本物の動機と勘違いして、
心の奥底に隠れている人間的エゴを満たし、
満たされている心地良さに、「本来の自分を生きている」と錯覚してしまう。
そのうえ、
以前の窮屈な自分(無意識に抑圧していた自分=先ほどの例では支配欲を抑えていた自分)
から解放された、という実感もあるので、より気づきにくかったり。
また、満たされることで、
今度はそれを失う恐れや不安も無意識に生まれるので、
満たされた状態を維持するために、
満たすことを追い続ける、ということにもなります。
それが強くなると、先ほどの「○○」アピールのように、
「自分は満たされている」とアピールしていても、
実際は、本人が気づいていないだけで 恐れや不安でいっぱい という
言葉と心がちぐはぐな状態に。
そして、その恐れを紛らすために、
外へのアピールでまた人を惹きつけ、
自分の内側の隠れた願望(人間的エゴ)を叶えようとする、というループに陥る。
※誤解がないよう補足しますが、
自己アピールや自己表現がいけないわけではなく、
その表現が自分の心を誤魔化すための表現だということに、
本人(他者も)が気づいていない場合が多い、という意味で書いています。
本人からすれば、そのような隠れた願望や恐れを見たくないので、
「満たされている」という心地よい感覚だけを重視し、
それが全てであるかのように判断します。
無意識なので、全く自覚していません。
自分に都合の良いものや、
見たいものだけを見てしまっている ので気づかず、
むしろ、自分と向き合い、深い気づきによって「内側(魂)が満たされている」とさえ
思っていることがあります。
内側の深いところにある隠れた願望(人間的エゴ)が叶っているので、
それが魂の喜びだと錯覚してしまうんですね。
他者との関係でも、こういった隠れた願望や内側に気づいていないため、
結果的に、魂の望みではなく、
互いのエゴを満たし合う関係となり、
本来の調和ではなく、
共依存を生んでしまっている場合が多かったりもします。
確かに人は、見えている部分では色々な体験をしているけれども、
自分の深層にあるものに気づいていないため、
霊的成長という意味での見えないステージは変わらず、
同じステージに居続けている、という状態になっている場合も。
まずは今の自分を観察(客観視・俯瞰)し、
深層にあるものに気づくことが大切だと思います。
都合の良いものばかりを見るのではなく、
そのままの状態をあるがままに見る。
自分を観察することは、
自分の内側の抵抗を解いていく ということでもあり、
魂に気づくための基本だと思っています。
なので、そこを無視して次には進めない。
自分の本当の内側を受け入れることで、
真の選択 が始まり、そこからやっと、
調和の中の個の真実をスタートさせることができる、と私は思います。





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