黒井ドラゴン研究員のK哲学・歴史研究所

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学者ドラゴン・Kの研究所。

先日、『邪馬台国研究「3つの忘れ物」』という本を書いた。寄しくも、この本が出た時、『バックヤード』で吉野ケ里遺跡が取り上げられ(NHK・6月12日放送)、1年前に大きな話題になった、「卑弥呼の時代(弥生時代後期)の有力者の墓」などが紹介されていたが、何か不思議な縁を感じてとても嬉しかった。

 

さて、この本は、邪馬台国研究は、長い年月にわたって研究されてきたにもかかわらず、「3つの大きな忘れ物」があったことについて書いたものである。今回は、まず1つめについて取り上げたい。

 

1つめは、『魏志倭人伝』には、卑弥呼当時の倭国の範囲の記事が書かれているが、その記事が重視されず、「無視されてきた」に等しかったことだ。


邪馬台国の所在地を探すのに、最初に踏まなければならない手順は、「卑弥呼当時の倭国の範囲はどこまでだったのか?」を考え、その範囲で所在地を探すことだろう。だが、残念なことに、今までは、それがなされてこなかったのだ。

 

では、卑弥呼当時の倭国の範囲は、どこまでだったのか?「九州の中だけ」だったのである。そして、本州などは、卑弥呼当時は、まだ「倭国」ではなく、倭国とは別の国、つまり、「外国」だったのである。

 

そして、本州など、九州以外の地域も「倭国」の領域に入ったのは、古墳時代が始まった時だった。それは、「邪馬台国がヤマト政権を継承した」ことによってであった。

 

(NO.26 2024.6.23)