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K哲学・歴史研究所 つぶやき日誌

学問大好きドラゴン・Kの研究所。

『週末の歴史話』

宮本武蔵は

どのくらい強かったのか? 

 

黒井ドラゴン

 

 大谷翔平選手がきっかけで、今やすっかり流行り言葉になっている『二刀流』。

 

 その二刀流の元祖である宮本武蔵は、昔から「非名人論」vs「名人論」で論争されてきた。つまり、「武蔵は強くない」という非名人論と、「武蔵は強い」という名人論が、長年にわたって論争されてきたのだった。「武蔵非名人論vs名人論」の論争は、今でも続いているようである。「邪馬台国論争」と同じだ。

 

 「武蔵非名人論vs名人論」でとくに有名なのが、戦前の直木三十五と吉川英治の論争である。直木三十五の「武蔵非名人論」と吉川英治の「武蔵名人論」が文壇で大いに繰り広げられ、吉川英治はそれがきっかけで小説・『宮本武蔵』を書き始めたという。

 

 では、実際の武蔵はどうだったのか?

 学問好き・歴史好きなお殿様が、武蔵についてのインタビューを行ったことがあった。

 

<宝永6年(1709)9月10日に、第五代加賀藩主・前田綱紀(つなのり)は、渡辺幸庵という長寿の人(武蔵とほぼ同世代といわれるが、諸説あり)に宮本武蔵についてのインタビューを行った。幸庵は次のように答えている。

 

 予(幸庵)は柳生但馬守宗矩弟子にて、免許印可も取るなり。竹村武蔵(宮本武蔵のこと)という者あり、自己に剣術を練磨して、名人也。但馬守にくらべ候ては、碁にていわば、井目(せいもく)も武蔵強し。

 

(『考証宮本武蔵』戸部新十郎・光風者出版をもとに作成)>

 

 渡辺幸庵という人は、柳生但馬守の弟子で、諸説はあるが、武蔵とほぼ同世代、130歳まで生きたといわれる人である。

 その但馬守の弟子であった幸庵が、「碁でいうと井目も置かせるほど、但馬守よりも武蔵の方が強い(但馬守よりも武蔵の方がはるかに強い)」と述べている。

 但馬守の弟子であった人の証言で、「武蔵はとてつもなく強い人だった」だったことがわかった。武蔵は、「非名人」ではなく、「名人」だったのだ。

 

 蛇足だが、大谷翔平選手は別として、大谷選手の影響で、世の中が何でもやたらと「二刀流」と言われる今の風潮に、筆者は少し抵抗を感じている。武蔵はこの風潮を、天国からどう思って見ているだろうか?少し苦笑いしているかもしれない。

 

(2024.8.31)