10年以上ブログを書いているが、リブログを一度も使ったことがなかった。
保江邦夫先生創始の冠光寺流真法免許皆伝・柔術の後継者である前山泰彦師範が、ちょうど私のことを少し書いてくれたので、初めて使ってみた。
私自身は自分のことを武術家ではなく武術愛好家だと思っている。
合気技法に関しては、色んな先生に習ったり技を受けたので、それなりには詳しい。
真面目に研究していたら、逆に各種合気技法を破る方法論の方が確立してしまった。
よく話題に出る「護身」に関しては、合気・愛魂に限らず全ての武道・武術・格闘技はそのままでは護身には使えないと考えている。
自分や自分の大事な人の身を護るためには、危機が目の前に来てから対処するのでは間に合わない。
あらかじめ危険を想定して事前の準備することが大事で、危険性があるところに近づかないことに尽きる。
ただし、起こりうる危険は無限に想定できるので、あまり考えすぎると精神衛生上良くない。
例えば、地震が起きた時の備えや避難を日々考えておくことは必要だが、「隕石が落ちて津波に飲み込まれる」などの少ない可能性を信じて高地に引っ越すとかまでは必要ないと思う。
実際に目の前の危機が迫った時にどうするのか?という護身を目的とするならば、練習のレベルを上げていく他はない。
相手を襲う役の人が忖度なしで本気で向かって来られた時に対処できるのか?
冠光寺流の護身について危惧するのは、岡山道場に来ていた女性が「愛があれば、危険な目に遭わないんですね!」と言っていたと聞いた。
「んなわけねーだろ」って話なんだが、「私には神様がついていて強い力に守られてますから~」と言ってるスピ系の人も多いんだよね。
その一方で、世の無常に対して見えない力や運を何とかしようとするのも人情だし、宗教的な信仰心に向かうのもよくわかる。
神に全てを委ねる本当の信仰心まで到達すれば、見ず知らずの人にレイプされ無惨に殺されてもOKかもしれない。
「合気」に関しては、植芝盛平先生のように生まれつきの強靭な身体を元に武道を学んで信仰に向かうのもありだと思うし、佐川幸義先生のように死ぬまで自分の身体を鍛え続け、技法の向上を目指していたのが答えだと思う。
エスタニスラウ神父も相当な苦行を自らに課していたわけで、いくら冠光寺流が唯心論武道といっても生身の肉体から逃れることはできない。
・・・と、ここまで書いて前山さんに批判的な内容と読んだ人もいると思うが、彼のアプローチは保江先生直伝で愛魂としては正しいと感じるところもある。
合気現象自体は肉体をあまり使わなくとも起こせる部分もあるので、護身を一切考えなければ楽しむこともできる。
保江先生のように、女性中心にしてワイワイ・キャッキャの場をつくるのもありかと。
これは聞いた話で、保江先生は合気・愛魂について過去に色んなアプローチ法を教えてきたのだが、習った人全員がこれで合気・愛魂ができるようになるとは考えてはいない。
「できる人はできるし、できない人は(一生掛かっても)できるようにならない」というのが最初からの答え。
「心のありよう」が問われる前山さんのやりかたは、既に人生の上がりが見えた人の方法論のような気がしている。
保江先生が一度死んで、その後の人生を謳歌しているように。