遊牧の民より農耕の民の方がどうやら縄張り意識が強いかもしれない。
国境が生まれる要因は言葉や宗教など、色々あったでしょうが、農耕を覚えて、肥えた土地と水源の確保が生活に最も欠かせないから、それが一番の要因かもしれません。
遊牧民はウロウロしていたから、広い土地が必要なのであるいは国境は不便だったかも・・・。
中央アジアの遊牧民が移動するのは、牧草地を必要以上に滞在すると羊が食い尽くして、エサがなくなってしまうので、食い尽くす前に移動する。
牧草は一定期間放っておけば、また繁殖する。けれども、その牧草地には農耕は適さない。
自然が農耕を阻止するけれども、牧草程度の草を再生させるのは許してくれる。
だからその土地では遊牧の方が、農耕より適している。
隣の大陸では、古来北方の遊牧民族と農耕民族せめぎあいが常に問題の種だった。
高地で遊牧する人々のお手伝いをする犬は主人に忠実で、どう猛だったそうです。
見知らぬ人には命も惜しまず食らいつく程の番犬だった。なので、主人も遠来の訪問者が訪れる時にはその番犬たちを隔離して、訪問客とは接触させなかったそうです。
しかし訪問客が逗留すれば、番犬もそのあたりを推し量ったりできたそうです。
どの様にして番犬たちは、逗留した訪問客を客として歓迎するのか・・・?
それはまるで、賄賂。
彼らは賄賂で番犬モードを解除する。
で、その賄賂とは、訪問客の地平線の見える草原での脱糞だった。
訪問客とご主人との晩餐で、彼らはそれをインプットしたそうです。
馬上からの弓矢と若しかしたら、番犬も放牧地拡大の一役を買っていたのかもしれません。
彼らは普段は牧畜犬。オオカミなどの野生の動物から、羊の群れを守っていた。
チンギスハンは、馬と弓と犬で広大な牧草地を手に入れたともいえるのかもしれません。