キリスト教系私立女子大学の〝貧すれば鈍する〟の新たな危うい現況の出現について 


 日本には、嘘つきは泥棒の始まりという言葉がある。それは、平気で嘘をつくようになると、良心がなくなって、盗みも平気で行うようになるかのような意味であるが、嘘をつくのは、悪の道へ入る第一歩であるということをも意味している。
 元々は、この言葉は子どもたちに対する戒めである。この戒めが子どもの頃に行われなかったということで、大人になって、しかも、老年になっても、平気で嘘をつき、悪の道へ入る老人もいる。情けないことである。
 しかも、その老人が私立大学といえども大学の学長である。自分は、本当はクリスチャンでもなんでもないにもかかわらず、また、そのことは自分自身もよく承知しているにもかかわらず、自分が所属している私立大学での教職員による学長予備選挙で、理事会から選考を受ける学長候補の1人になって、何れかの教会の牧師に依頼して、洗礼を受け、その教会の会員になって、毎日曜日に定期に開催される礼拝をはじめ教会の儀式や典礼にはできるだけ出席し、それと共に、自分の毎月の収入の10%という金額を毎月教会に献金することを約束し、自分はクリスチャンであるかのように外見外聞を装う。
 理事会は、学長候補者が何時とか何故とかを問わないで、クリスチャンであるということで、学則要件を充足させているとして、偽クリスチャンを学長に選考する。
学長の前提が偽クリスチャンであれば、当然、偽クリスチャンに因る学長の偽学長である。真正の学長であるかの外見外聞偽装の学長は、高等学校生徒などの入学志願者を募集する際に、自らを学長と称する度に高校生に虚偽を通知していることにならないのか。その他、国家社会や国家国民に対して、口頭でも書面でも、学長として何かを述べるのはその度毎に虚偽通知しているのと同様であるように思われる。

 

キリスト教系女子大学は現在の日本社会で女子自体から進学希望が本当にありますか。
 
(キリスト教系女子大学への進学と在学の娘と娘の野心と真の姿を知らないお人好しの親)
福岡県内に所在するキリスト教系女子大学に現在在学しているお嬢様が近所にいます。このお嬢様が国公立一般大学や男女共学大学、非キリスト教系大学などという他の大学にはない自分の大学の特色の良し悪しについて先日お伺いする機会がありました。
このお嬢様が現在在学する福岡県内所在のキリスト教系女子大学では、講義、入学式、卒業式、その他の行事の折りに演壇の先生や牧師様からキリスト教やその聖典である聖書の内容についてありがたいお話しがあるそうです。
この大学は、女子大学であるので、当然ですが、学生さんはすべて女性であるということです。それで、学生さんだけに限ってですが、男子という異性の学生さんは1人もいないということです。
福岡県内に所在していなくても、日本では、キリスト教系女子大学は、一般的には、お嬢様が在学し、進学する大学としては、いわゆるお嬢様大学と言われたり、思われたりします。
ある種の若い女性がお嬢様と思われたり、言われたりするのは、その女性が裕福な家庭で生まれ、衣食住などの点で何も不自由がないだけではなく、高級な衣食住を享受して育ってきたからです。それは、親の収入の高さに基づきます。お嬢様の親はたいてい、家族経営やそれに近似な中小商工業の自営業者、弁護士や公認会計士などの高給取り専門職であったり、高級官僚や代々の資産家です。
そのような親は、学歴や教養が高く、しかも、その際の教養とはたいてい欧米のもので、欧米の教養の基盤根本であるキリスト教について知得していて、経済的にも政治的にも自由主義で、進歩主義的で、近代主義的で、民主主義的で、人によっては就学か仕事かでの欧米への留学や滞在の経験があったり、それがなかったとしても、それらを大学などで学び、欧米という近代市民社会についての知識を十分にもっています。それで、キリスト教は自分の先祖伝来の宗教ではない場合が多々ありますが、親心として、娘であれば、世の中の汚濁を知らずに、世の中には不合理なことは全くないと信じ込んで学生時代を過ごすことができる自由主義的な学校と思われているキリスト教系女子大学に進学させるのです。
しかし、娘は、石坂洋次郎の戦後の文学作品で描かれているような家族の中の空想的な娘ではありません。娘は自分の将来を展望しますが、その際、娘の眼は親の想像以上に、現実的であって、到底、理想主義的ではありません。それは、当然であると思います。親は、娘が死亡するまでの娘の将来の生活を経済的に保障することはできません。娘はすでにそんなことは分かっています。娘は、自分は女性であるので、日本では女性は独身で一生を過ごすことは大変に困難で、不可能であるのを承知しています。娘は、男性との結婚で、お嬢様や独身女性から夫人や妻になってしか、日本では生きていくことができないことを分かっています。
 
(女子大学内では、異性の学生と知り合う機会と放課後や休み時間中に直に異性間でワイワイ話し合う機会はない)
大学内だけではないのですが、一般社会でも、男性については分かりませんが、女性だけがいる集団では、つかみ合いや言葉での罵り合いこそあまりありませんが、人間関係の中で静かな喧嘩や反目などが絶えません。男性には分からないように女性はそれらを行なっています。
講義、入学式、卒業式、その他の行事の折りに既述の通り先生方からキリスト教やその聖典である聖書の内容についてありがたいお話しがある上述のキリスト教系女子大学でも、女子学生間の人間関係で喧嘩や反目などが絶えないそうです。それで、大学を長期欠席する女子大生の方や長期に大学に来なくなり結局は退学する女子大生の方は、キリスト教系女子大学でも想像以上に多いそうです。
キリスト教系女子大学でもボーイフレンドに高級欧米車で大学に送り迎えさせる女子大生さんが多数いるそうです。この女子大はキリスト教系であるとはいえ、その女子大生さんは上述したいわゆるお嬢様大学ですから、大学への送り迎えのために高級欧米車を使わないような彼氏はいないようですし、裕福な家庭の人しか彼氏としては相手にしないようです。自分を迎えに大学近くに来た自分の彼氏の自動車に同学の友人を時々同乗させることもあるそうですが、それで、同乗させたその友人から自分の彼氏をいつの間にか横取りされることもあり、それも女子大生間の人間関係で喧嘩や反目の原因になるそうです。
学生さんだけですが、女性だけしかいない人間関係は不自然ではないでしょうか。地域も職場も人間の社会は通常同性と異性が混在しています。それが自然です。私たちはそのような社会の在り方に生まれ、親しみ、慣れています。ところが、女子大では、女子大生の方にとって、学生集団は、同性しかいないのです。女子大生の方々は、大学で無意識に不自然さを感じ、それが原因で、想わず識らずのうちに、一定の否定的緊張感を積み重ね、その積み重ねが、女子学生間の人間関係に歪みを発生させ、事後に後悔したり、不要であったと思える争いになるように感じます。
 
(キリスト教系女子大学では女子学生の婚前の恋愛や男女交際を否定的に評価し、禁忌する)
 既述の理由から、女性にとってまだ現在の日本では結婚することは人生の成功と失敗を分けるということで決定的に重要です。男性は一生独身でも社会的にはあまり不利や困難さはありません。他方で、男性と同様の人である女性は、先ずは夫人や奥様でなければ、次には、高学歴で、極めて高度な専門職に就き、東証一部上場会社や官公庁に正規の社員や職員の男性の夫人や奥様でなければ、現在の日本社会でいろいろさまざまな活動を自由に行うことはできません。その自由の中には経済的自由も立場的自由も当然にあります。
高学歴で、極めて高度な専門職に就き、東証一部上場会社や官公庁に正規の社員や職員として勤務の一部の女性であれば、たとえ独身であったとしても、現在の日本社会でもいろいろさまざまな活動はおできになるかもしません。他方で、男性の場合、高学歴で、極めて高度な専門職に就いていなくても、ある程度の学歴で、ある程度の職業で、ある程度の勤務先で、正規の社員や職員であれば、現在の日本社会でいろいろさまざまな活動はできます。現在の日本は、資本主義ですので、何を行うにも金銭の裏付けが不可欠で、必要な程度の金銭が現在はなくても必ず将来は事実上自動的に入手可能であるのであれば、現在の日本社会でいろいろさまざまな活動はできます。しかし、それはたいてい男性だけの場合が基本で、女性は例外的か不可能的です。
 女子大生は、すでに以上のことをよく知っています。家庭において、父親の夫人あるいは1人の女性として地域や職場でいろいろさまざまに活動する自分の母親の姿や言葉を見たり聞いたりして、現在の日本での女性の世間からの取り扱われ方の異常さや不平等さなどを直接的にも間接的にも見聞しています。たいていの女子大生は、社会と戦うというのではなく、高学歴で家庭的に裕福な男性と結婚し、その上で、現在の日本でいろいろさまざまに活動する自由を得ようとします。女子大生にとって、現在の日本では、遺憾ながら、高学歴で家庭的に裕福な男性との結婚の下でしかそのような自由がないのを女子大生はたいてい、たとえキリスト教系大学といえども、すでに大学在学当時から知悉しています。それで、今の女子大生は、その結婚相手を就職後ではなく、大学在学中に、自分の方に囲い込むことを切望しています。たとえキリスト教系大学といえども、今の女子大生は、その手段を選びません。今の女子大生は、それをすでに大学在学中に、友人らとの彼氏争奪で学び取っています。高学歴で家庭的に裕福な男性は、すぐに取られてしまうからです。職場に同僚として在職している男性の社員や職員は、高学歴で家庭的に裕福であれば、就職以前の大学在学中からすでに、社会人女性か女子大生かに取られています。
キリスト教系女子大生は、日本社会でのキリスト教の今日的意味が内容的に分からないのですが、キリスト教系女子大学でのキリスト教の教育と儀式典礼に嫌悪感を抱いています。男女共学ではなく、それで大学内で、異性学生との知り合う機会が全くなく、異性学生とワイワイ楽しく過ごすことができないと共に、大学出欠監視下の無理矢理のキリスト教の退屈な講義と儀式典礼への不合理な出席強制のために、キリスト教系女子大学では、在学中の学生も新入学生も大学定員よりもかなり減少し、収容定員割れの現況が際立ち始めています。それは、高校の先輩が高校の後輩にキリスト教系女子大学という自分の大学の現況を教えるからです。後輩はそんな大学には進学しません。
大学でのキリスト教の講義でも儀式典礼の際の牧師さんや先生のお話しでも、男女道徳のことばかりで、それは、たいていの女子大生にとって無意味で、それだけではなく、自分の今後の結婚相手探しには害悪です。既述の通り、たいていの女子大生にとって、大学在学中に将来の結婚相手の異性を見付けることは、自分の人生にとって友人知人女性に勝つか負けるかの重大事です。大多数の女子大生は、大学在学中に、高学歴で、実家が裕福な異性との間でもはや一生自分から離れていかない程度の深い交際をできるだけ行い、卒業直後すぐに結婚し、結婚相手が法的に制度的に自分から逃げないようにしたいのです。少なくとも女子大生の場合、有利な相手との結婚は既述の理由から就職してからでは万事休すです。
女子大であれば日常的に学内で異性学生と知り合う機会がないし、それに加えて、キリスト教系女子大学では、キリスト教関係の講義でもキリスト教の典礼儀式でのお話しでも学生時代の結婚以前の異性との深い付き合いを悪視する内容で、多くのキリスト教系女子大生には、キリスト教は、無意味であるだけではなく、自分の人生の成功に反し、負け組にしようとしているとしか見ることができません。このことも、在学中の高校の先輩女子大生から高校在学中の後輩に伝わり、キリスト教系女子大学への女子高生の進学希望は少なくなっている原因です。
以上のことを伺い、私たちの時代よりも、今の時代の女子大生が自分の人生をよく考えていると思いました。
 

在学中の女子大学生の学生生活について
 
   北部九州地域にはキリスト教系私立のいわゆるお嬢様大学として地域社会に知られている大学が数校ある。そのようなお嬢様大学というのは、必ずしも所定の定義があるわけではないが、巷間思われるのは、家族の経済的地位が高く、それで、現在、家族が衣食住に不安がないだけではなく、むしろ余裕があり、家族が全員豊かな生活を享受し、このことが現在だけではなく、将来も同様であって、家族の一員で、家庭生活の経済的豊かさの享受のために、精神的品性を有し、大学などの学窓学び舎などを卒業後も自活のために必ずしも就職したり、自分の家庭に自分の収入の一部を入れなければならないこともなく、仮定として実家で独身で一生をおくっても、結婚したとしても嫁ぎ先が実家と同程度の経済的余裕がある家族になることが予定されているので、将来の生活にも不安が全くない女子大学生が在学している大学である。


 以上の私立女子大学の1つに在学中の女子学生はたいてい、①自分の彼氏が自分を自動車で大学に送り迎えをしてくれるか否か、②自分のその送り迎えの際に彼氏が使う自動車がベンツやフェラーリなど高級欧米車か否か、③彼氏が自分の誕生日などのプレゼントをティファニーなどのどこの高級店で買ったかのか否か、④彼氏が自分とのデートの日やクリスマス・イヴの夕食をどこの高級ホテルで用意してくれたのか否かなどで在学中友人間で競っている。

 要するに、自分が彼女として彼氏にどれ程に大切にされているのかや彼氏から彼女としてどれ程評価されているのか、自分が交際している彼氏が如何なる程度に裕福かを在学中の友人らに示して牽制している。
 すでに以上の私立女子大学での在学中において、女子学生は、自分の彼氏が自動車で自分を送り迎えしたり、自分のその送り迎えの際に彼氏が高級欧米車を使い、彼氏が自分の誕生日などのプレゼントで高級宝飾などを買ったり、彼氏が自分とのデートの日やクリスマス・イヴの夕食を高級ホテルで用意するのが当然であるという意識などが形成される。彼女たちはその意識をもって卒業する。

 このような状況は末恐ろしき感じする。それは、人生は必ずしもその始まりから終わりまでフラットではありえない。家庭が裕福である間に、女性であったとしても、配偶者の収入、しかも高収入があるのが当然視し、それを前提とするのではなく、大学などで自分で高額な金額の収入を稼ぐことができる知識と技能、技術を習得した方が良い。大学は、女子学生間の見栄の張り合いの場所とするのは在学中の親などとの死別や、卒業後の離婚や配偶者との早々の死別などでの高額収入喪失で後悔する。人生はどのような生まれの人にも幸運をもたらすが、破局ももたらす。

クリスチャンと聖書の言葉について

関東地方のキリスト教系の私立大学において、本来は、クリスチャンではないにもかかわらず、全職員の学内の予備選挙で学長候補の1人に選出され、当該私立大学開設の学校法人理事会での選考までに急いで、特定の教会で牧師から洗礼を施され、その教会の毎週日曜日開催の礼拝式などの儀式や行事に出席し、そして、毎月の十分の一献金を教会に納付しているということを形ばかりのクリスチャンになった人がいる。

日本人とは相異して、生まれ育ったのがキリスト教社会であり、親などと共に子どもの頃からキリスト教会に通い、聖書の内容について教会のさまざまな儀式や行事などでの聖職者や司牧者の説教によって知悉している欧米人であれば、聖書が道徳の本であるとは全く考えない。

欧米の社会では、聖書は、いろいろな形で聖書の中に記されている三位一体の神とのクリスチャンのコミュニケーションのための手段である。

このことはクリスチャンであればすべてのクリスチャンに相当する。クリスチャンは、聖書の言葉を通して、その時々の自分への神の意思を知得し、その意思に従って行動と言動を行う。それは、聖書の言葉を通してその時々の自分への神の意思を知得し、その意思に従った行動を起こし、言動を行い、結果的に、それが社会を歴史的に変動させたルター、カルヴィン、ウェスレーなどだけではなく、すべてのクリスチャンに当てはまる。

クリスチャンになると、その人には聖霊が内在するようになる。聖霊を内在させている人は、自分に内在する聖霊の内部からの働きかけで、聖書の言葉によって、その時々の自分への神の意思を知得し、その意思に従って行動と言動を行う。聖書は、いろいろな形で聖書の中に記されている三位一体の神とのクリスチャンのコミュニケーションのための手段である。

偽クリスチャンは、聖書を読んでも、自分に聖霊が内在していないので、聖書によって神とのコミュニケーションを行うことができない。それで、偽クリスチャンは、聖書を道徳の本とし、その内容を道徳的思想としか理解できない。偽クリスチャンであるのか否かは、聖書に対する理解で判断することができる。

偽物クリスチャンと大学での学長の就任について
 
最近、特に、関東地方内所在のキリスト教系の私立大学の学長選考で奇異なことが散見さる。学校法人理事会での学長選考以前に、事前に、学長候補者予備選挙が行われる。その予備選挙はたいてい、当該大学所属のすべての大学教員や幹部事務職員の投票によって行われる。
その予備選挙で、たいてい上位3者という複数の学長候補者が選出される。その学長候補者予備選挙において、学長候補の1人になった途端に、それまでキリスト教とは自分も家族も無関係であった方が、今後の学校法人理事会の学長選考において、学長になる可能性を開くために急遽、クリスチャンという形式だけを備えて、いわゆる「クリスチャン」という偽物クリスチャンになり、学長として選考されることがある。
関東地方所在のキリスト教系私立大学などに限らず、キリスト教系私立大学などを開設しているたいていの学校法人では、学校法人の規則で、大学や高等学校などの開設学校の学長や校長などはたいてい、クリスチャンでなければならないという規定を設けている。
それは、大学や高等学校などの学校法人開設学校の学長や校長などに選考されれば、その学長や校長などは、私立学校法第38条第1項第1号の条規に依って自動的に、大学や高等学校などの学校法人開設学校の業務を決定し、それを監督する学校法人理事会を構成する理事長乃至はその他の理事らになるからである。