感謝とは何でしょうか。

「ありがとう」という言葉は感謝でしょうか。

「ありがとう」という言葉は感謝ではなく、礼儀なのです。

自分にとって都合の良い事、利益になった場合に、その相手に対して礼儀として「ありがとう」という言葉があるのです。

では真の意味での感謝とは何でしょうか。

まずは自分の存在を考えてみてください。

自分がこの世に存在するためには、この空間が必要です。

この空間がなければ人間は存在し得ないのです。

そしてこの空間に自分が存在するのです。

その自分も今この瞬間に生きています。

生命があるからこそ生きて動いているのです。

この空間があるのも、あなたがこの空間に存在するのも偶然でしょうか。

どんなに些細な事でも物事に偶然はありません。

すべてが必然であり、原因があり、それが結果としてあるのです。

心から「ありがたい」と思うのは何に対してでしょうか。

またそう思ったら礼儀としてではなく、感謝としてどうすればいいのでしょうか。

皆さんの感謝を考えてみてはいかがでしょうか。

 

人は何のために生きているのでしょうか。

自分が自分である意味がないと思えばないでしょう。

あると思うなら、その意味を自分で作り上げていくしかありません。

確かに人には「宿命」とか「運命」があります。

(正確に言えば、魂の宿命とそれに従う人間の運命ですが。)

要するに、生命を生み出す神(真たる神)から一人一人の人間に「あなたはこうしなさい。こういう人間でありなさい。」という意志を与えられ、それを魂と言うのです。

その想いを感じ取り、素直に従える人もいます。

しかし大抵は感じませんし、また感じたとしても信じられません。

「こういう風になりたい」とふっと思う自分すら信じられないのです。

なぜそんな事を思ったんだろう、頭でもおかしくなったのかな、今日は疲れているから、上手いように自分を誤魔化しているのです。

もちろん自分を誤魔化している事にすら気付いていない事が多いのですが。

人間にはあるゴールが各自指定されています。

そのゴールに向う過程は人間に任されているのです。

ゴールに向おうとする意志があるならば、その過程で待ち受ける困難を魂がそっと手助けしてくれる事もあります。

ただゴールの方向すら判らない、ましてやゴールなどあるはずもないと思う人間には、何の手助けもありませんし、魂の存在自体「あって」も「ない」と同じになります。

人間の現実(生活)に魂が手を貸すことはありません。

人間の現実は人間の努力で対処するしかないのです。

しかし宗教的な捉え方で魂をみると、それでは何のために信じるのか、何の役にも立たないと思うのです。

残念ながら、魂であろうと、神であろうと、仏であろうと、人間の役に立つ事を主とするものは存在しません。

それでも心の拠り所にしたいという気持ちは理解できますが、それでは何も変わらないのです。

弱い自分とは逃げる自分です。

きつい事やつらい事から逃げ、自分の認めない世界を無視する、それでは何の成長もできないのです。

もっと輝いた自分を見たいと思いませんか。

自分に秘められた可能性を引き出したいとは思いませんか。

そのためには強くならなくてはいけないのです。

そして自分のゴールを見つけるのです。

どれが本当のゴールなのか、それは判らないかもしれませんが、自分の感動を求めるのです。

試行錯誤の繰り返しになるでしょうが、一歩一歩を踏み出さなくては前へは進めないのです。

 

人生とは、決められたものでも、与えられたものでもなく、自分自身が創っていくものなのです。

宿命とは、自分自身(魂)に対して決められて与えられたものです。

運命とは、宿命に従う自分自身(心・肉体)に問われているものです。

つまりは、あなたの生きる必要性、あなたがあなたである意味は何かを問われているのです。

人の生命は虫より尊いものでしょうか。

人の生命も虫の生命も同じなのです。

ただ、人にあって虫にないもの、それが「価値」なのです。

この宇宙に人間が必要かといえば、人間がいない方が自然破壊も環境汚染もなく平和なのかもしれません。

それでも人間がこの空間に存在する、ならば人間は各々の存在価値を見出さなくてはいけないのです。

「私はここにいる」と大きな声で天に示すのです。

どんな事でもいいのです。

自分が自分であってよかったと思える価値を創りあげていくのです。

そうでなければ、あなたはなぜあなたなのですか。

他の人でも良かったのではないですか。

自分の価値は自分で高めていかなければ、何もしない人間を誰が認めてくれるのでしょうか。

人間の価値に高値がつくのか、それともどぶに捨てるようなものなのか、その鍵を握っているのは他ならぬ自分自身(魂・心・肉体)なのです。

 

人間、必死にならないといけない時があります。

生きるという事は、必死なのだという自覚が足りないのです。

仕事だろうと家庭内の事であろうと、必死にならずに、手段や要領だけで取り組んでいこうとするならば、必死さを促される方向に流されるのです。

人間の感覚でいけば、必死さは見苦しいかもしれませんが、他人にどう見られようと、必死さは人間が忘れてはならない事なのです。

自然界を見ても、花も動物も必死に生きているのです。

何をどう必死にすればいいのか、それは自分との戦いです。

何か行動を起こさなくては結果は出ないのです。

立派な理念を持つ事も大切です、仕事ならば戦力を練るのも必要でしょうが、それに行動が伴っていなければ結局は絵に描いた餅なのです。

やらなきゃ何も返ってはきません。

たとえそれが良い結果だろうと悪い結果だろうとです。

人は必死さを忘れ、生命を軽んじています。

九死に一生を得た人は、生命の重さを知っています。

しかし死ぬ目にあって、助かればいいですが、死んでしまえばお終いです。

だからこそ、九死に一生を得るような経験をしなくても、生命の重さを捉えられる自分を創っていくのです。

そういう自分を目指すしかないのです。

また九死に一生を得た人も、時が経てばまた生命の重さを忘れてしまいます。

いつも自分に言い聞かせながら、「助かった」と思った自分を思い返すしかありません。

必死さも、生命の重さも、自分なりにそれを捉えていきながら、言い聞かせる事から始まるのです。

いつまでその気持ちを持続できるのか、それができなければ、必死さや生命の重さを身を持って(痛い思いや死ぬような目にあって)学ばされるのです。

 

自分は今の自分でいいのだろうか。

人はそういう風に考える事を余儀なくされています。

そうなるようにプログラムされているのです。

その中で、目に見える現実以外に、人間は見えない世界と共存している事を気付かされるような状況にあるのです。

そう言われても見えないのだから判らないと思うのが人間です。

結局は都合がいいのです。

信じられない、信じたくない、それは自由なのですが、ある部分では信じたり、ご利益を得ようとするのです。

信じられないなら全てを信じなければいいのです。

しかしそれじゃ「怖い」と思う気持ちがあったり、自分の得になりそうなものだけは信じてみたりと、中途半端なことをするのです。

今の自分もそうなのです。

これでいいのか、そうは思っても現実の中で様々な支障(仕事が忙しいとか家事や子育てが忙しいなど)があり、このままではダメだと思う気持ちを理由をつけて誤魔化しているのです。

要するに人間は自分がかわいいから、今まで歩んできた人生を振り返ったとしても軌道修正しようとはしないのです。

たとえそこに疑問が浮かんだとしても、新しい自分を発見するのが怖いのです。

他人の目が気になるという事もありますし、今までの自分を否定する事になるのではないか、また軌道修正したとしてその道が正解かどうかも判らないのですから。

ただ、人生に「確実」はありません。

こうすれば100%大丈夫だ、そういう人生はあり得ないのです。

しかし人は保証を求めます。

確実を求めるのです。

だからこそ、いつまでも心にモヤモヤとしてものを抱えたままの今の自分を変えることができないのです。