自分を強くしてくれるのは、他人の優しさや、楽しい事、うれしい事ではなく、むしろつらい事、悲しい事、苦しい事なのです。

そういう事が自分の心を強くしてくれるのです。

ただし、強くなろうという気持ちを持たなければ乗り越えられずに、辛さや悲しみ、苦しさに潰されてしまいます。

そしてまた他人を憎んだり、恨んだり、妬んだりしてはいけません。

そういう事が自分を、自分の心を貧しくするのです。

どんな境遇にあっても、自分を、自分の心を見失ってはいけないのです。

世の中は理不尽です。

この理不尽は人間サイドから見た場合です。

もっと高い所からこの世というものを観察していくと、この世は決して理不尽ではありません。

ただ理にかなっている事を発見できないだけなのです。

この世の中を如何に生きるのか。

全ての答えはいつも自分の中にあるのです。

答えを外に(他人や社会)求めようとするからこそ、真実を見つける事ができずに悩むのです。

答えはいつもあなたの中にあるのです。
 

 

自分はどこに向って生きているのでしょうか。

そういう悩みを持つ方は多いのではないでしょうか。

仕事をしているから、育児をしているから、今はそれで良いかもしれませんが、それがなくなった時、あなたは真の意味であなたである価値観を問われる事になります。

その時に「私はこうありたい」という自分を持っていなければ、あっという間に人生は終わってしまいます。

自分がどこに向うのか、それは他人から教えられる事ではなく(アドバイスとしては伝える事はできますが)、自分が決めていくしかないのです。

仕事や家事、育児などで忙しいのは判りますが、テレビを見る時間、遊ぶ時間を削ってでも、自分と向き合う時間は必要なのです。

自分を見つめる時間、その中で自分はどうしたいのか、どうなりたいのか、自分は何をしている時に自分である喜びを感じるのか、どんな事で感動するのか、そういう事を自問自答してみるのです。

いつも必ず答えが出るとは限りませんが、そういう事を繰り返しながら自分の価値観を作り上げていくのです。

行く道はどこでもいいのです。

問題はその道を行く自分の心構え、精神、行動なのです。

必死にその道を行く、その道を行く自分を疑わないならば、たとえその道が間違っていたとしても、後押しするものが表れてきます。

それが自分の中にあるもう一人の自分の力なのです。

現実の生活に流されて、惰性で自分を生きる者には、それなりの人生しかありません。

自分はこの道を進むのだ、そう決め付けて行く事は勇気がいる事かもしれません。

なぜなら、そう決め付けたのは自分であっても、その道を行く中で、必ず疑う自分が現れるからです。

その時に、今まで自分が築き上げたものを捨てなければならないかもしれません。

自分を捨てる事ができるのか、それとも疑う自分に負けてしまうのか。

疑うのは、今までの自分の経験等を踏まえて先を予測しようとするからです。

経験した事のない事や予測できない事に挑むのは怖いのです。

傷つきたくない、損したくない、そう思うからこそ、前に進めないのです。

自分とはどこかの誰かのコピーでいいのでしょうか。

それならばあなたはあなたである意味はあるのでしょうか。

自分を疑う自分に未来はあるのでしょうか。

そういった壁を作るのは自分の意識なのです。

そしてその壁を乗り越える事ができるかどうかもあなたに掛かっているのです。

捨てるからこそ得るものがあるという事を言葉では知っていても実行する事ができないのです。

でも考えてみてください、生まれた時はこの肉体と精神、そして生命以外に何も持っていなかったのです。

もともと何もなかった所に自分が様々なものを染み付けてきたのです。

自分の行く道は決め付けて構いません。

ただ、行くと決めたからには必死になることです。

疑わない事です。

一途にその道を進んでいくのです。

そういう自分が奇跡を呼び込むのです。

 

あなたは今この世を去るとして後悔や心残りはありますか。

「ない」と心から言い切れる人はどれほど存在するでしょうか。

大半は後悔や心残りがあります。

生への未練だけでなく、残される家族、または友人、恋人、仕事などへの思いもあるでしょう。

自分自身、まだまだやりたい事があるかもしれません。

自分はまだまだこの世を去ることは出来ない、そう願ったとしても、人間の覚悟など聞き入れてくれないのが死というものです。

病で命を脅かされる人、また高齢で先が短いと思う人、死というものに直面した人も、今は健康で死なんて自分には遠い先の問題だと思う人も、今日一日を生きているという保証はありません。

事故や事件などに巻き込まれないとは言い切れないのです。

死とは年齢や健康に関係なく、いつでも人間の側にあるのです。

今日、命がなくなったとして、後悔や心残りのある人間が、この先後悔や心残りを消していく事ができるかといえば、今日が出来ないのに未来も無理なのです。

だからこそ、今日一日を如何に生きるのか、それを考えなくてはならないのです。

いつまでも逃げていられる問題ではないのです。

いつ死ぬのか、死の影に怯えるのではなく、その死の瞬間にでも「自分はやり切った」と思える自分を作り上げていくのです。

後悔や心残りは、肉体がなくなった後にもこの世に残ります。

あなたの精神は後悔や心残りとしてこの世に未来永劫留まってしまうのです。

だからこそ、そういう気持ちを少しずつ消していってはどうでしょうか。

 

問題に直面した時、人は焦りや不安を感じるために、それが隙となります。

慌てふためいて、冷静さを失ってしまうと、問題に対処できなくなるのです。

なぜ人は問題に直面した時に焦りや不安を感じるのでしょうか。

まず言える事は、信じるものがないからなのです。

できなかったらどうしよう、ただその思いだけに支配されてしまうのです。

自分だから乗り越えられる、そういう風に自分を信じているならば、焦りや不安はないのです。

何事にも動じない自分になるためには、信じるものが必要なのです。

そしてその信じるものは何でもいいのですが、一番身近なものとして、自分という存在があるのです。

自分を過大評価するという意味ではなく、生きて動ける自分があるならば、何事も挑んでいく事で結果になるという事です。

自信と驕りは紙一重ですが、自分の可能性を信じられなくて、自分を疑う事は隙を作ります。

できないかも、そう思えば出来るものでも出来ません。

出来ると信じて精一杯問題と向かい合える自分を目指すのです。

逃げるのは簡単です。

しかしいつまでも逃げられるものではありません。

強くなれない自分、信じられない自分、その理由は山ほどあるでしょう。

しかしあなたは生きてこの世界に存在するではないですか。

それがたった一つ、確固たる出来る理由ではないでしょうか。

 

人間は自分自身で「素直」である事を難しくしています。

たとえば、誰かがあなたを誉めてくれたとして、それに対して素直に「ありがとう、嬉しいです」と心から言える人は少ないのです。

言葉だけで礼儀として言える人はいるでしょうが、大半は照れくさかったり、また何か下心があるのではないだろうとか、どうせお世辞だろうと勘ぐって喜べないのです。

また逆に自分の欠点を指摘された場合も同じです。

自分の姿を全て自分が見えているかといえば、当然自分では気付かない欠点は誰にでもあります。

それを指摘してくれるという事は、実はとてもありがたい事なのです。

どうでもいい人にわざわざ苦言を呈して嫌な人間を演じる人はいません。

自分が嫌な人だと思われてでも、あなたがもっと魅力的になるようにと言ってくれるのです。

それを「あんたに何の関係がある」とか「言われなくても判っている」と受け入れられないのです。

自分の長所や欠点などは自分が把握しているよりもより多く存在します。

それを他人が誉めてくれたり、指摘してくれる事で、自分という人間を知っていく事ができるのです。

それを素直に受け止められないのは、「我」があるからなのです。

その「我」が自分の向上を邪魔しているのです。

「我」が本当の自分を隠しているのです。

誉められて嬉しければ「ありがとう。嬉しいです。」と笑顔で言えばいいのです。

欠点を指摘されたなら「ありがとう。勉強になります。」と笑顔で言えばいいのです。

たったこれだけの事を人間は「できる」とか「できない」とかあれこれと言いながら実践できないでいるのです。

口を動かし、頭であれこれと考える前に、やってみるしかないのです。

いきなり出来る人はほとんどいません。

何度も繰り返し自分に言い聞かせながら身に付けていくしかないのです。

そうしていく内に、本当の自分を隠していた「我」が薄れていくのです。

本当の自分を誤魔化そうとしても、自分自身を誤魔化し通すことはできないのです。