人間の心理として、他人より優位でありたい、そう思うものがあります。

自覚のあるなしに関わらず、そういう気持ちが誰にでもあるのです。

それ故に、自分の知らない事や経験上ありえない事などを素直に受け入れ、認める事ができないのです。

他人より優位でありたい、その気持ちの存在を知ったとしても、まだ受け入れられないのは、己の器の小ささではないでしょうか。

そういう気持ちが自分にあるとして、それならこうしていこう、こういう風に考えてみようと試行錯誤しながらも自分を大きくしていけるのです。

しかしそれもせずに、ただ受け入れられないと拒否していったとしても、結局は自分の視野を狭くしてしまうのです。

受け入れるのは相手のためではありません。

何事も最終的には「自分のため」になるのです。

頭では理解できたとしても、人間には感情というものがあります。

その時々の気分で受け入れたり拒否したり、また言う相手によって受け入れたり拒否したり、それでは誰かがあなたにアドバイスをしてくれたとしても全てを吸収する事はできません。

何もかも信じなさい、吸収しなさい、そうは言いません。

ただ今の自分を空っぽにした状態で一旦受け止めてみなければ、今の自分を頑なに持ったままでは効率が悪いのです。

水を吸ったスポンジに再度水を含ませるのは無理ですが、乾いたスポンジならどんどん水を吸収しますよね。

それと同じなのです。

そして一旦自分の中に受け入れた事を、次は整理し、そして判断・選択していくのです。

この世に人間の理解できない事は山ほどあります。それを無理やり「あり得ない」と証明しようとする事に何の意味があるのでしょうか。

人間が知らないだけで、それは本当に存在するのかもしれません。

だからこそ、自分も「出来ない・無理だ・自信がない」と逃げずに、「やってみようじゃないか」と言える自分に変えていかなければならないのです。

奇跡といわれるものは、何も天から降ってくるのではありません。

自分の前向きな姿勢と強い意志、そしてそれに伴う行動が導くものなのです。

人間にはそういう可能性が秘められているのです。

ただ、それをどうやって導くのかを知らないだけなのです。

 

この世に存在する人間の数だけ不安というものは存在します。

家庭内の問題、健康の問題、金銭の問題、仕事の問題、容姿の問題、数え切れない問題に不安というものが付きまとっています。

そういう不安とは別に、誰にでも共通する不安があります。

現実的な不安ではなく、何ともいえない不安、自分でも判らないのになぜが不安を感じるのです。

それが何か、そう問うてみたとしても、漠然として得たいの知れない不安としか言えないでしょう。

現実的な問題は、解決の方法も見つかるかもしれません。

また解決の方法を教えてくれる人も多いのです。

しかし漠然とした得体の知れない不安は、その発するものの存在すら掴めないのですから、解決方法は雲を掴むようなものです。

それにそういう不安があることを普通の生活の中で誰かに話す事はありません。

なぜなら、その不安を自分だけが抱いているのではないか、自分がおかしいのではないか、思い過ごしではないか、そうやって抱え込んでいるからです。

また現実の不安と違い、得体の知れない不安を抱えていても、生活の中でその不安を察知される事はないのです。

不安というものは、目に見える不安(現実の生活の問題)と目に見えない不安(得体の知れない不安)があるのです。

目に見えないものであるからこそ、見過ごしてしまうのです。

またその不安は実生活の中で特に影響がないようにも捉えられているのです。

ところが、それはその不安に慣れてしまっているからなのです。

子供の頃にそういう不安はあったでしょうか。

子供の頃は誰もが明るい未来を、夢を描いていました。

そこに得たいの知れない不安を感じる事はなかったはずです。

大人になっていくにつれて、そういう不安が少しずつ蓄積されてきたのです。

どうすればその不安が消えるのでしょうか。

その答えは、まずはどこから得たいの知れない不安がくるのかを知ることです。

人間には役割があると言ってきました。

その役割は人それぞれあり、誰一人として同じものはありません。

同じカテゴリーである事はあっても、全く同じではないのです。

自分という存在は、他と同じではないという事なのです。

人間には肉体があり、意識があり、そして生命(魂)があるのです。

その三つが一緒になって人間を形成しているのです。

肉体は目に見えます。

意識は目に見えませんが、誰もが「ある」と認識しています。

では生命はどうでしょうか。

考えた事はありますか。

あると認識した事がありますか。

得体の知れない不安とは、その生命(魂)の発する叫びなのです。

生命(魂)は自分の物ではありません。

その証拠に、自分の死を自分で止める事はできるでしょうか。

まだ死にたくない、そう願って死なないものではありませんよね。

人間の意識で、死をコントロールできないという事は、生死は自分の思い通りにならないものなのです。

自分の中に生命(魂)があるとどれだけ認識する事ができるのか、それを自分なりに捉えていく事で得体の知れない不安は徐々に消えていきます。

人間が自分という存在を知ろうとすること、それを促されているのです。

得体の知れない不安から解放された時、初めて自分がどれだけ苦しい状態にあったのかを実感する事ができます。

解放されてみなければ知り得ない感覚なのかもしれません。

 

この世に存在する人間の数だけ悩みがあります。

そしてその答えというものは、いつも己の心にあるのです。

ところが人はその心に振り回されてしまうのです。

自分らしさを求めても、その自分の心はその時々で変わってしまうからです。

理想と現実の狭間で自分を求め、探しているのです。

探しているうちはまだ見つかる可能性もありますが、いつ見つかるとも判らずにいつの間にか探す事に飽きて、疲れて、探す事を止めて、そのうち人生が終わるのです。

人は自分の頭で理解しようとするのです。

現実の中で証明されるものに自分を当てはめようとしているのです。

現実の方程式に自分を照らし合わせても、それは所詮現実でしかありません。

人の心は現実の方程式に当てはまるでしょうか。

心は目に見えますか。

決して目には見えません。

しかし人間には、あなたには、あると思える心が存在しているではないですか。

そしてその見えない心が、あなたを苦しめ、そしてまたあなたに希望の光を与えているのです。

心が痛い、心が温かい、そういう感覚を感じる事ができるはずです。

それは頭で感じているのではないはずです。

現実の方程式には当てはまらない、この世の見えない方程式が存在しているのです。

自分を探すという事は、感動を与えられる自分、そして感動できる自分を知ることです。

自分は世のため人のためにあるのではありません。

自分は自分とその可能性、そして魂のためにあるのです。

その中で世のため人のためになる自分であるなら、それは最高でしょう。

自分のため、それは自分の欲望や欲求、快楽のためではなく、感動を与えられる、感動できる自分のためです。

そこの所を間違えないようにしてください。

求める答えはいつも自分の中にあるのです。

そして何より、悩もうと楽しもうと、それは生きているからこそであるのです。

生きてこそ、その中で成長する事もできれば、また逆に落ちていく事もできるのです。

 

魂とは意志なのです。

たとえば、目の前に一枚の絵があったとします。

その絵は元は何もなかったものです。

無から生まれた有なのです。

何もなかったところで、「絵を書こう」という意志があり、想いとして(イメージとして)絵の構図が浮かび、それに伴う行動としてキャンバスの前で絵筆を握り、一枚の絵が生まれるのです。

この宇宙も一つの想いから生まれたのです。

全てが一つの想い、意志から生まれているのです。

意志がなくては何も始まらないのです。

いや、意志がなくても始まる事は始まりますが、それは建設的なものではなく後退的なものでしょう。

自分がどうありたいのか、その想いのために何かをやろうとする意志、そしてそれに伴った行動、それに対して結果が出ているのです。

誰もがそうやって自分の人生を歩んでいるのですが、想いや意志、そして行動に対しての自己分析や観察をしないままに、結果だけで全てを測ろうとしているのです。

そしてまた結果だけを重視し、その結果にだけあれこれと言い訳を言っているのです。

納得できない結果であったとしても、それは天から降ってきたものでも、他人から押し付けられたものでもありません。

全ての結果は、自分が導いてきたのです。

それを理解できる、または理解しようとするならば、私も教える事は沢山ありますが、「判らない」とか「そんなはずはない」と逃げるのであれば、何ができると言うのでしょうか。

肩こりが治った、生理痛が治った、最初はそれが目的で私の元を訪れても構いません。

しかしその中で「気づかなければならないこと」があるのです。

それを説明する事、たとえ聞く耳がなくても、一度は説明していくのです。

人間が知らなければならない故に。

そしてそれが私の役割である故に。

 

ふと気づくと、人間はいつの間にか何事も「疑う」ことが基本になっています。

思い返してみると、子供の頃は「疑う」ことはなかったのです。

子供の純心さは、様々な事に疑問を持ち、それを聞いて、そして「信じる」からこそ、様々な経験をし、また吸収し、成長していたのです。

大人になると「信じる」ということを忘れてしまいます。

それは「騙されない」ためという名目はありますが、それが己を小さな器に閉じ込めていることには気づいていないのです。

もちろんこの世には様々な人間が存在し、誰もが清く正しく生きているわけではありません。

騙す者、裏切る者、また騙される者、裏切られる者、すべてがこの地球に存在しているのです。

どれが良いとか悪いとか、結局は人それぞれの判断でしかなく、その判断もあやふやなものです。

ただ一つ、己の純心さを忘れないことです。

全てを疑うなとは言いませんが、信じたものがあるならば、たとえそれが何であったとしても疑わない事です。

信じたものへの疑いは、自分の弱さです。

子供が母親に教えてもらった事を疑う事はありません。

だからこそ、そこには不可能を可能にする力があるのです。

人間間違える事はあります。

信じるものを間違えることもあります。

しかし間違えていたからといって「騙された」と言うのでは、今までの自分は何だったのですか。

そういう経験もあったからこそ、今の自分があるのです。

今までありがとう、これからは違う道を行きます、そういう心掛けが出来なければ、真の意味で信じるという事を貫けないのです。

中途半端に信じてご利益を得ようなんて、そんなに簡単に物事は運ばないのです。

「鰯の頭も信心から」と馬鹿にする前に、信じて疑わない純心さ、至誠を学んでみてもいいのではないでしょうか。

信じるものは何でもいいのです。

どれだけ信じられるのか、信じたと思った自分を疑わない事です。