人間はいとも簡単に操られるものなのです。

何に操られるのか。

それは己の魂であり、また侵入者であり、要するに人間は時として自分の意識とは別の想いに動かされてしまうのです。

以前も書きましたが、人間は唯一自分の物だと言えるのは精神だけです。

肉体も魂も、自分の物であるようでいて、それは人間の思い込みなのです。

肉体は借り物、魂は預かり物、そして生命は人間の意識ではどうにもならないと知らなくてはなりません。

死というものはいつでも誰でも手にする事ができます。(中には死にたくても死なせてもらえない事がありますが)

しかし生はそうはいきません。

いずれ人は死を迎えます。

死を望む者に「生きなさい」とは言いませんが、死の前に考えなくてはいけません。

自分は何のためにこの世に存在したのかを。

無意味であるならばこの世に存在する事はありません。

生まれたという事は真たる神から存在の許可を得たという事なのです。

そしてあなたの役目は「魂を磨く事」にあるのです。

そのために肉体を借りているのです。

そしてまた寿命という時間を与えられているのです。

魂はあなたに期待しているのです。

あなたの魂がどれほど輪廻転生を繰り返しているのか、そしてまた何百年待ち続けてこの世に放たれたのか。

それを放棄するのは簡単ですし、死をもって何かから解放されると思うのも自由です。

しかし死は本当に解放でしょうか。

ごく稀に魂が人間に「死の記憶」を鮮明に甦らせる事があります。

それは暗闇への恐怖、目をつぶる事もできない(したくない)ほどの恐怖なのです。

今までに数名そういう方がいらっしゃいましたが、普通に考えれば精神が壊れたものだと思われてしまいます。

その意図する所は人それぞれ違いますが、根本として「魂を知れ」と言われているのです。

そしてその声を(実際には聞こえません)聞けと言われているのです。

魂も必死なのです。

その想いに気付いて欲しいのです。

魂を知ったからといって裕福になれるとか有名になれるという事はありませんが、自分が何のために存在するのか、その意味を求める者には必要な事です。

あなたに期待を掛けるのは、親や先祖だけではありません。

魂もまたあなたに期待しているのです。

そのプレッシャーに負けない自分を自分で育てていかなくてはなりません。

それでも生きているのが嫌だと思えばそれもまた選択肢の一つでしょうが、死は解放ではないという事は肝に銘じておいてください。

 

人は死んで終わりとは限りません。

亡くなった人の想い、それが強ければこの世に残ります。

あの世とはこの世にあるのです。

ただ人間の五感の世界とは周波数が違うためにそれを確実にキャッチできないだけなのです。

その周波数が一致した時に、見えたり聞こえたり感じたりする事があるのです。

想いというのは消える事はありません。

あなたに誰かの想い(霊と言ってもいいですが)が入り込んでいたとして、それはあなたの肉体が目的なのです。

想いはそれだけでは何もできません。

肉体がなければ何も行動する事ができないのです。

だから何かの想いを取り込んでしまった場合に、今までの自分とは違う嗜好や性格に変わる事があるのです。

そしてあなたの肉体が滅びる時、想いは別の肉体を求めます。

またあなたに何かしらの心残りがあるならば、あなたもまた想い(霊)となって誰かの肉体を求めるのです。

それほど人間の肉体は想いを成就させるためには必要なものなのです。

しかし生きていて肉体があったとしても、人は自分の想いに忠実に従う事はできません。

そこには様々なしがらみがあるでしょうし、また人間は元来怠け者なのです。

楽をしたい、きつい事はなるべくしたくない、それでも想いだけは一人前です。

生きている間にその想いを消化していかなければ、半永久的にその想いだけはこの世に残ってしまうのです。

霊にとり憑かれて恐い、そういう事で終わるのではなく、なぜ霊はとり憑くのかを考えれば、生きている事の素晴らしさにたどり着くのです。

生きているだけで、そこには無限の可能性があるのです。

その可能性を無にするのか、有効に活用するのか、問われているのです。

生きている事の素晴らしさを生きているうちに知っていかなくては死んでからでは遅すぎるのです。

 

不平不満を言えるという事はまだまだ甘えがあるのです。

物事がうまくいかないと嘆いても、誰かに不平不満をぶつけても、自分が何かに気付かなければ改善する事はできません。

できなかった理由は様々あるとしても、生きているからこそ何でもできるという事を忘れてはいけません。

できない理由を言ったとしても、結局それは自分を守ろうとしているに過ぎないのです。

できない理由は言い訳でしかありません。

やろうという意志の強さがあるならば、結果としてうまくいかなかったとしても、それはそれで納得できるものです。

不平不満が口から出るという事は、全力で取り組めなかった、手を抜いた、真剣ではなかった、どこか甘えた自分があったのです。

宇宙の中にこの地球があり、その地球上で人間が生きていくために必要なものは全て揃っています。

舞台は全て揃っているのです。

その中で不平不満があるとするならば、それは目標や意志がない、足りないからなのです。

一日を全力で駆け抜け、それを繰り返し人生となるのです。

一日の終わりにまだ余力のある者、全てを出し切れなかった者が、人生を全力で走れるでしょうか。

一日ができないのに、その積み重ねの人生ができるはずがありません。

今日できない事を明日に回すならば、人生もまたあるかどうかも判らない来世に求めるのでしょうか。

明日も生きているのか、それは誰にも判りません。

余命幾ばくもない人を可哀相だと同情する人間でも、明日はないかもしれないのです。

むしろ病気になって初めて「生きている事の素晴らしさ」に気付いた者の方が奇跡の復活を果たすかもしれません。

お金持ちだろうと貧乏だろうと、有名だろうと無名だろうと、健康だろうと病弱だろうと、明日を保証されている人は誰一人いません。

不平不満を言う時間があるならば、もっと前向きな事に取り組めるのではないでしょうか。

明るく前向きな自分があるからこそ、保証はなくても明るい未来を造っていくことができるのです。

 

人は生きるために「神仏」を作り上げてしまいました。

人間の作った神仏であれ、長年人間があるという思いで携わってきたゆえに、それは「ある」というものになりました。

しかし人間は人間の都合で神仏と接するために、そのしっぺ返しにあうのです。

利用できるものは何でも利用する、しかし利用するからには何かを返さなくてはなりません。

神仏だから無料だとか、神仏だから何も要求しない、これは大きな間違いなのです。

神仏は物やお金を要求はしません。

それに携わる人には必要ですが、神仏が求めるとするならばそれはあなたの至誠であり、それがなければ命です。

本人の命を取るという意味ではなく、その子孫代々続く不都合を意味します。

神なのにそれはない、と言い切れるほど神の事を知っていますか。

知ろうとした事はありますか。

人間の作った神仏とは別に、この世を創造した真たる神、そしてその真たる神からこの世に投げ出され人間一人一人に宿る魂という名の神が存在します。

真たる神を理解せよとは言いませんが、そこに繋がり、また自分だけの神である魂は知っておいて欲しいのです。

形としてある神仏に手を合わせるならば、己の中にある神にも気付いて欲しいのです。

魂はある程度まで人間のために努力してくれます。

しかし人間がいつまでもそれに気付かなければいずれは手を引くのです。

生命を大事にするという事は魂を大事にするという事なのです。

そういう存在を人間は誰もが持っているのです。

ただそう思えるかどうなのです。

 

うちの妻は言う事を聞かない、うちの子は素直じゃない、私の部下は使えない、自分以外の人間の性格等を変えようとしてもそれは無理な話です。

相手を変える前に己を見なくてはなりません。

自分に都合の悪い事をする配偶者や子供、部下や上司、そういう人間関係の中で何に気付かなくてはならないのかを知らなくてはなりません。

自分の至らない点を教えてくれるのは、神でもなく魂でもなく他人なのです。

神や魂はその姿形はありません。

それゆえに直接的に人間に何かを教えたり語り掛ける事はできないのです。

その代わりに他人をあてがうのです。

言う事を聞かない配偶者から自分の至らなさを知るのです。

使えない部下から自分の至らなさを知るのです。

子供は取り替える事はできないとしても、配偶者や部下は取り替える事ができますが、たとえ新しい相手が見つかったとしても、結局は自分が変わらなくては結果は同じです。

他人を見て学びなさい、そう言われているのを知らずに、あいつが悪い、こいつが悪いと言っていても何ひとつ変わりません。

自分を知らなくてはならないのです。

そして自分が変わらなくてはならないのです。

怒りを抑えられない人には怒りを招く人をあてがわれます。

それなのに怒りを爆発させているならば、あなたは自分に負けているのです。

他人は自分の鏡、そう言われる事がありますが、正にその通りなのです。

他人を変えることはできませんが、自分は変えることができます。

変わろうという強き意志を持つ事で180度でも変わる事ができるのです。

できないのは、やろうとしないだけの事です。