人は、自分に理解のできないこと、それが自分にとって不都合だと感じれば特に否定したくなるものです。

否定したい気持ちがあれば、何を聞いても受け入れる事はできません。

そして、それが普通(一般的)の反応なのです。

魂とは…と話をしても、拒否反応がある場合は、何も伝わらないのです。

拒否していても、何かしら感じるものがあったとしても、全力でそれを閉じ込める(偶然や勘違いとして)のです。

理解できないものに対しての防御反応なのかもしれません。

しかし、人は理解できなくても利用しているもの、恩恵を受けているものは山ほどあります。

「理解できなくても、そうなっているのだ」という仕組みがあるのです。

魂というと、宗教か、高額な品物を売られるのか、知らないから触れたくないのかもしれませんが、人間に魂が宿るということも、そういう仕組みなのです。

その仕組みを知っていくことで、現実に表れたもつれた糸が少しずつ解けていくことがあるのです。

全く興味もない、知りたくもないという人を捕まえてまで話すものではありませんが、少しでも知りたいという方は、その気持ちを大切にしてください。

そして、話を聞く機会があれば、素直さと謙虚さを第一にしてください。

決して多くはありませんが、魂という存在について、知りたいまたは知らなければならない人はいるのです。

それがあなたである可能性もあるのです。

 

自分の判断により行った事。

その結果が自分の予想外で戸惑う事や困る事があります。

しかしそうしたのは自分なのです。

戸惑いや後悔、こんな事をする自分はバカではないか、そう思うのか、それともこういう事もあるさとむしろ予想外の結果を楽しむのか。

今は前者の方が多いのではないでしょうか。

その気持ちは判りますが、それでは思わぬ結果を招いたうえに、自分の魂からもダメだと言われるのです。

なぜなら、結果を否定する事は、決断した時の自分を否定する事なのです。

自分で自分を否定して、誰が自分を認めてくれるのでしょうか。

自分がした事なら、結果の良し悪しに関わらず、全てを飲み込んでいくしかないのです。

結果が判らない事に対して消極的になりがちですが、どんな事でも人間の予測が成り立つとは限りません。

これなら絶対に幸せになれる、そう判っているならば誰だってそうするでしょう。

しかし人間の予測など高が知れているのです。

魂の話もそうです。

見えないからこそ信じられない、そこを越えて信じる事ができるかどうかなのです。

誰にでもその存在が見えるならば、信じるのは当たり前なのです。

結果にくよくよしない、またくよくよして何かが変わるならばいいですが、自分を傷つけるだけで何も前進がないという所に気付いて欲しいのです。

時間を戻す事ができないのですから、その先の時間をどう使うのかを考えていく事しか人間にはできないのです。

その時間も限られています。

限られた時間の中を喜び溢れた時間でいっぱいにできるのは、他人ではなく自分なのです。

右の扉を開くのか、左の扉を開くのか、いつも自分の判断で道を選び未来を決めています。

決まった未来がないという事は、あなた次第で無限の可能性を切り開けるという事なのです。

生きているって嬉しくないですか。

死ぬが死ぬまで自分の手で未来を創っていけるのです。

微笑を忘れずに前を向いて歩いて生きましょう。

 

信心深く、毎日手を合わせていたのに、どうしてこういう(辛い)目に遭うのでしょうか。

よく聞く言葉なのですが、信心深いとは何でしょうか。

何のために毎日手を合わせているのでしょうか。

毎日手を合わせているから不幸などとは関係がないはず、という捉え方で神仏と接しているのです。

要するに「自分や自分の廻りの人(家族や友人など)のため」に手を合わせているのです。

挙句の果てに、毎日手を合わせているのに不幸になった、とその責任が神仏にあるような言い方をします。

そして毎日手を合わせていた事自体が無駄であったかのように、つまりは信じていた神仏を疑っているのです。

そういう魂胆で神仏を利用しようとしてきた人間に対して、神仏はどう思うのでしょうか。

神仏でなくとも、あなたが同じような事をされていい気持ちがするでしょうか。

信じているよと言われながら、いきなり手のひらを返したように疑われていい気持ちのする人はいませんよね。

神仏とて同じ事なのです。

辛い目に遭ったとして、その原因は必ずあるのです。

しかも神仏や他に原因があるのではなく、自分にその原因があるのです。

それでも「この程度で済んだという事は手を合わせていたおかげだ」と思える自分であるならば、素晴らしい事だと思います。

宗教をした方がいいとか、しない方がいいなどは言いません。

したければすればいい、したくなければしなければいいのです。

ただ、宗教とは関係なく、神という存在があるのです。

神というとどうしても宗教的になってしまいますが、名前がなければ説明もできないので便宜上そう呼んでいるに過ぎないのです。

信心とは、人間の幸せを願うためのものではなく、この唯一の神のためにあるのです。

人間はその存在を知り、生かされている事の感謝を表現していくしかないのです。

人間の幸せは人間の努力で得ていくしかありません。

決して神が与えるものではありません。

神はこの世を、そして生を、すでにあなたに与えているではないですか。

 

誰もいない部屋で物が燃える・・・

これは霊現象でしょうか、不思議な現象でしょうか。

物が燃える、この場合は大抵は人間の仕業です。

ただし、火をつけた本人が自意識のない状態で操られているならば、火をつけた記憶も部屋に入った記憶もないでしょうから、結局は「誰も火をつけていない」という事になるでしょう。

人間の脳をコントロールする者、それが魂なのか霊なのか神(万の神)なのか未知なる存在なのか、それは詳しく調べてみなければ判りませんが、人間の脳はいとも簡単にコントロールされるものだという事です。

魂や霊が火をつけたりする事はできません。

しかし物が飛ぶとかガラスが割れる、そういう程度ならば可能です。

私の知人にも、そして私自身も、テレビのリモコンが飛んだり、テーブルの上のコップが割れたりという事はあります。

これの意味する所は、「何かを伝えよう」とするものであり、その時点で気付かなければ警告はまた形を変えて表れます。

私の知人でデパートでガラスのお皿を手に取ろうとしてその直前でお皿が粉々に割れてしまったという事がありました。

デパート側は当然知人のミスであり、弁償を要求されましたが、別の店員の方がお皿にはまだ手を触れていなかった所を見ていたそうで弁償は免れました。

「へぇ、そんな事があるんだ。」で終わってしまってはただの不思議な話ですが、この知人には「墓を動かす」計画があったのです。

私は反対しましたが、聞き入れてもらえませんでした。

その矢先にこの現象があり、本人も判るかと思いましたが、結局は不思議な現象が偶然にあっただけという風に終わってしまいました。

その後の警告は…肉親の死(殺人事件)。

それでも人間とは考えが甘いもので「偶然」で片付けられました。

この世に偶然などありません。

全てが必然であり、その現象の中で何を伝えようとするのか、何を気付かなければならないのか、それを発見していかなくてはならないのです。

恐い話、不思議な話、それは人間の思い込みの世界である事もありますが、その中にも「警告」のようなものが存在するのです。

魂は姿を見せて教えてくれる事はありませんし、できません。

だからこそ、人間が「何だろうか」と考えさせられるような現象を見せることでしか教える事ができないのです。

霊によって脳をコントロールされたとしても、原因は霊にあるのではなく、なぜその人は霊に入り込まれてコントロールされたのか、そこまで見ていかなくてはならないのです。

そしてまた人間の脳は人間の思っているよりも「何色にでも色付けされる」ものであり、その脳を持って全てを理解しようとしても越えられない物があると知っておかなくてはなりません。

 

神さん、仏さん、と言っても今は接する事の少ない時代です。

家庭内で仏壇や神棚のある所は減っていますし、神仏といえば宗教という感覚しかありません。

要するに今の人は神仏に接する事もなく、また接し方も知らないのです。

親が教えてこなかった、神仏とは宗教の世界、そういう事になってしまったのです。

そのために私の元に訪れた方も私の話す神(真たる神、そして己の魂)を理解してもらうというよりは、まずはどういう風に接していくのかを知ってもらう事から始まります。

家庭内における仏壇や神棚は、宗教的な意味、またご利益を貰うためというよりは、子供や孫に「見えないものへの敬いの姿」を見せるためにあるのです。

今の自分があるのは先祖の存在のおかげであり、また人間がこの世に存在するのは真たる神のおかげなのです。

何もないところから人間がポンと発生したのではないのです。

先祖であれ、真たる神であれ、何かの期待や想いをもって私達を見ているのです。

それを知らずして自分の好きに生きていくならば、見てももらえなくなります。

要するに相手にもされないのです。

神とはどういうものなのか、それには知識も必要ですが、肌で感じる心で捉える事が一番大切です。

私の元に訪れた方に「黙ってそこに座っていてください」と言いますが、大抵は暇を持て余し、何のために座っているのか判らないために挫折してしまいます。

神に接していくためには、明確な意志が必要なのです。

強き意志が神の前でも、そして自分のためにも必要不可欠なのもであると知らなければなりません。