命の期限は誰にも判りません。

病に倒れ、余命を告げられたとしても、その通りに命の期限がくるとは限りません。

逆に、若く、健康であったとしても、それはこの先10年、20年の命を保証されているわけでもありません。

明日を保証されている人は一人もいないという点では皆同じなのです。

何となく、若いとか健康とか、命を脅かされていなければ、今日という一日の価値に気づけないまま過ごしているのではないでしょうか。

明日はないよ、そんな事を神は教えてはくれません。

いえ、正確にいえば、神は教えてくれませんが、あなただけの神、つまり魂は、命の危険がある時には何らかの警告を出してはくれますが、人間が気づかないのです。

話がそれましたが、今日という一日の価値、命の価値、そこから広がる無限の可能性、そういう事からついつい離れてしまってはいないでしょうか。

特に若い方は、まだまだ先があると思っているかもしれませんが、時間は止まっているわけではなく、刻々と進んでいるのです。

人がなぜこの世に存在するのか、それは魂の助けをするためなのです。

つまりは、あなたの中にある無限の可能性をどれだけ引き出せるのか、という事です。

娯楽、趣味、仕事、家庭、それだけのために生まれて生きているわけではないのです。

それを忘れている時、必ず思い出させるような現象が生じます。

不幸な事、不運な事、不都合な事、一つ一つ見ていくと、それぞれに原因があるかもしれませんが、その大元には「あなたの人生、それでいいのか!」という投げ掛けがあるのです。

 

人って何のために生きるんだろう・・・

そういう思いを抱く人は少なくありません。

その中で「自分はこれのために生きる」と決めることができれば、ただひたすらにその思いを貫いていくだけです。

それが正解なのか、そんなことは誰にもわからないのですから、躊躇することはないでしょう。

ただし、己の欲望を満たすのみ、というものであるならば、恐らくうまくはいきませんけどね。

何かに決める、ということができる人は少数派で、多くの方が何であるのかわからないままです。

何もわからない、そういう状態は暗闇の中にいるようなものでしょう。

どちらに行けばいいのか、一体自分はどこにいるのか、右か左か、はたまた上か下か、迷い、悩み、いずれはそんなことを考えることさえ無意味に思えてくるのです。

少なくとも、自分は何のために生きるのか、という思いを抱いたという自分をしっかりと自覚することです。

答えがわからなくても、自分はそういう思いをはっきりと抱いたと気づくことは、実は大切なことです。

そんなこと考えたこともない、というタイプの人であっても、そういう思いはどこかにあるのです。

ただ、それに気づいていないだけなのです。

ですから、気づくということは大切なのです。

明確にその答えを見いだせないとするならば、最低限でも「生きるということは素晴らしい」と思えるようになることです。

自然とそういう思いを抱くことができる人は多くはありません。

あったとしても、それは生命を脅かされた結果ということが多いですね。

そこから巻き返せるのならばいいですが、簡単なことではありません。

素晴らしいといっても、実際には嫌なことや苦しいことがいっぱいじゃないか!

そう思うかもしれませんが、そうであってもまずは自分に「言い聞かせる」しかないのです。

自分で自分を教育するのです。

少しずつでも「生きるのは素晴らしい」と自分に染み込ませていくこと、これが何もわからないなりにも出来る努力です。

 

自分の存在意味や存在価値、それを見失う事があります。

自分で自分の存在を疑ってしまうのです。

それはとても悲しいことです。

決して意味や価値のない人間は存在しないのです。

ただ、それを見失っているだけなのです。

自分で自分の存在を疑ったり、否定する事が、生きている喜びを忘れさせ、肉体を蝕みます。

最初は、生きていてもつまらないとか体が重たいという症状です。

それでも、生活が掛かっている人は仕事に向かいます。

しかし、生活が掛かっていない人、つまりは働かなくても食べられる人は、ひきこもり始めます。

ひきこもっているから重症、という訳ではなく、どちらにしても辛いものなのです。

まずは、自分で自分の存在を認めてあげてください。

決して無意味ではない、ただ唯一の存在なのです。

本当に無意味なら、最初からこの世に存在するはずがないのです。

誰も自分を見てなんかくれない、そう思っているのは、あなたが誰かを見ていないからです。

大きな事件を起こして注目されたい、しかしそれも一瞬です。

しかも世間が見るのは、事件を起こした犯人なのです。

決してその人間を見ているのではありません。

自分が自分を認め、そして自分が周りを見回すことで誰かが自分を見ていてくれる事にも気づくのです。

知らないから、気づかないから、真っ暗闇に一人だと勘違いしているのです。

あなたも私も、決して一人ではないのですよ。

 

他人からみれば些細な事でも、そこに拘る者からすればそれは一大事です。

拘りを持つことがプラスに働くのであれば良いのですが、マイナスに働く場合は大変です。

時に、それが原因で死を選ぶ人もいるのですから。

他人からみれば些細な事、これがヒントです。

自分の事であるのは間違いないのですが、あまりに「自分」をいうものを持ち過ぎるあまりに、その「自分」に追い詰められているのです。

あなたの周りにも、傍から見ると大した問題でもない(と感じられる)事に思い悩んでいる人がいるのではないでしょうか。

それは容姿のことであったり、学歴とか成績のことであったり、仕事に関する事もあるでしょう。

どんなに周りが「気にするほどのことでもない」と言っても、本人はそうは思えないのです。

思い悩むのが好きな人は、それでも良いでしょうが、そういう自分と決別したいと思うものがあるのなら、傍から見ている時を思い出すのです。

そういう感覚で自分の問題を見つめる事ができれば、あっという間に悩みから解放されます。

主観的な自分から、客観的な自分へと変えていくのです。

心の痛みもそうですが、実は100%客観的になれるのなら、肉体の痛みさえも消えます。

そういう仕組みがあるのです。

この世の中は、摩訶不思議なものなのです。

科学や医学では証明できなくても、実際に身の回りで様々な不思議が起こっているのです。

人生は辛く苦しい事ばかりではありません。

お先真っ暗、なんて思わないでくださいね。

思ってしまえば、本当にそうなってしまいます。

不思議を楽しみ、不思議を引き寄せ、笑顔で一生を終えたいじゃないですか。

そのためにも、今、思い悩む事があるとするのなら、それが考えても解決しないのなら、傍からみるように、他人事のように、さらりと流せるようになってください

 

人は、自分に理解のできないこと、それが自分にとって不都合だと感じれば特に否定したくなるものです。

否定したい気持ちがあれば、何を聞いても受け入れる事はできません。

そして、それが普通(一般的)の反応なのです。

魂とは…と話をしても、拒否反応がある場合は、何も伝わらないのです。

拒否していても、何かしら感じるものがあったとしても、全力でそれを閉じ込める(偶然や勘違いとして)のです。

理解できないものに対しての防御反応なのかもしれません。

しかし、人は理解できなくても利用しているもの、恩恵を受けているものは山ほどあります。

「理解できなくても、そうなっているのだ」という仕組みがあるのです。

魂というと、宗教か、高額な品物を売られるのか、知らないから触れたくないのかもしれませんが、人間に魂が宿るということも、そういう仕組みなのです。

その仕組みを知っていくことで、現実に表れたもつれた糸が少しずつ解けていくことがあるのです。

全く興味もない、知りたくもないという人を捕まえてまで話すものではありませんが、少しでも知りたいという方は、その気持ちを大切にしてください。

そして、話を聞く機会があれば、素直さと謙虚さを第一にしてください。

決して多くはありませんが、魂という存在について、知りたいまたは知らなければならない人はいるのです。

それがあなたである可能性もあるのです。