「民主主義は死刑廃止を要請する」 | anna-frederica

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民主主義の本質は基本的人権であることから、民主政治の究極の目標は基本的人権の保障とその充実にあるのは明白です。

そして、基本的人権の保障とその充実のためには基本的人権を有する個人の尊重が必要なのも明白。

個人の尊重はその個人の存在を消しては達成できないのもまた明白。

そのために民主主義国では法の支配という概念を産み出して立憲主義を取り人治主義から法治主義へと移行して法で人権を守ります。

そしてこの法で守るべき人権を制限しなければならないときにはその目的のために制限を必要最小限に抑えなければなりません。

これは立憲主義を取る民主国家の大原則です

為政者にとって不都合な人間を恣意的に排除することができないよう罪刑法定主義を取り、恣意的な法の運用をさせないためでもあります。

だから罪に刑罰を適用するとき、その刑罰が必要以上に重いものを規定する必要がないから、必要最低限の刑にしなければなりません。

どんな犯罪者であってもその犯した犯罪をなかったことにはできないのだから、起こした罪の償いをし、加えてこれからまた罪を起こすかもしれないという社会に対するリスクを0にすれば必要最小限の制限になるわけです。

起こした罪の償いは民事で、社会に対する再犯のリスク回避は拘禁(有期刑で社会復帰を予定する場合はプラス再犯防止のための更正)で足りるのだから、身体刑や死刑は必要ないわけです。

これが民主主義体制が他の政治体制と違うところなんです。

明治時代に西洋の近代法を取り入れる以前の日本は律令体制でした。

そこでは死刑と追放刑が刑罰の体系の根幹をなしていました。

死刑は懲罰以外に民衆への見せしめという目的があったからです。

その大義名分が勧善懲悪であり仏教的な因果応報であったりします。

放火犯が火炙りの刑になるのも因果応報で地獄で火炙りになることを現世で表したものでしょう。

しかし、日本が民主主義を取り入れた近代法の体系を採用している以上、律令体制で行われていた死刑は必要がなくなります。

その必要のないものを維持するための理由として被害者遺族の感情やら「命には命で償うべき」という応報刑が出てくるのでしょうが、それらは民主主義的ではありませんよね?

日本が民主主義体制になった現在では死刑廃止に向かうのは歴史の必然なんです。

考えるべきは、如何にして先伸ばしするかより、死刑廃止に伴う社会の受け入れ体制でしょう。

死刑制度に凶悪犯罪の抑止効果があるかどうかデータに現れるほどの差はありません。

そういう微小な差異を殊更強調して死刑制度を維持することにコストをかけるより、死刑廃止に伴って防犯体制の強化や犯罪を抑止するような教育に力を入れた国の方が凶悪犯罪の発生率は統計的にも低下しているのですから、こちらにコストをかけた方がコストパフォーマンスを考えても当然死刑廃止を選択するメリットがありますよね。