anna-frederica

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特定の宗教の話をする時、その教義や教典や教祖の話などを引用すると、決まって曲解したりその宗教の信者だと思われたり、言いたいことが伝わらないことが多いのであまり公に対して発言することは好まないのですが、古い資料を整理している時にちょっと興味深いものを見つけたので紹介します。


これはオウム真理教に関することなので、この主張が正しいとか、だからオウム真理教は悪くないなどということではないのであらかじめ断っておきます。


1995年3月に地下鉄サリン事件が起きましたが、オウム真理教によって引き起こされた事件であると報道された後のオウム真理教の主張です。


ここから先は引用



今回の大騒動は、決してオウム真理教だけの問題ではない。もし、オウム真理教をここで叩き潰すことに成功したならば、彼らは統制国家をつくりあげることに成功してしまう。オウム真理教弾圧の次に待っているのは、戦前・戦中と同じ思想統制・管理国家。マスコミは政府・警察の言葉をそのまま垂れ流す。警察は国民を徹底的に監視する。政府は自衛隊の暴走を掌握しきれない。六〇年前の悪夢が、今、甦ろうとしている。戦慄の完全監視体制のもとに置かれるのは、人権団体の方、政治家の方、弁護士の方。民主主義を守り抜こうと考える方。今こそあなた方の力が必要だ。正義のために立ち上がって欲しい。



以上が引用です。


今から20年以上前の言葉ですが、今まさにその通りの社会になりつつありますね。


オウム真理教ですら恐れる危惧する社会を作る安倍晋三は麻原彰晃以上に危険な人物であることは間違いなさそうです。


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民主主義国はなぜ死刑を廃止するのか、基本的人権を尊重しなければならないからだと書くと、必ず返ってくる答えが「殺人犯の基本的人権まで尊重する理由はない」とか「命は命で償うしかない」といった他人の人権を侵したら自分の人権もないのが当たり前という考えである。

だから死刑制度は維持されなければならないというのだろう。

しかし、それは基本的人権を根拠とする応報刑の容認であって、民主主義がなぜ死刑制度廃止に向かわなければならないかに対する反論にはなり得ない。

そもそも、民主主義における基本的人権の尊重は、国家という統治機構が目指すべき究極の目標であって、その権力の源泉は国民一人一人の権限によるものであり国民に信託されたものである。

国家権力が強制力をもって排除できるのは、国民の権限をその代表者である国会議員を通じて国の最高機関である国会をはじめとする統治機構の権限も国民の権限に由来する。

したがって、個人が他の個人の生命を奪う権限がない以上、国家も国民の生命を奪う権限はない。


個人は他の個人の生命を奪う権限はないが、生命を奪わなければならない状況がありそれが許される場合がある。

それが、正当防衛と際急避難である。

これはどちらも個人の基本的人権と他の個人の基本的人権とが衝突する場合に起こる。

正当防衛は、緊急かつ不可避の違法な行為によって自らの生命が脅かされるといった場合にのみ認められるもので、相手の行為が違法であるから自分の行為が正当化される。

緊急避難の場合は、相手の行為が違法ではない場合だから、その適用は更に厳密に行われなければならない。

自分が失うであろう法益と相手が失うであろう法益が共に国家が守るべき法益で違法性がない場合、相手が失う法益より自分が失う法益の方が大きい場合には認められるのが相当だと思われる。

例えば、犬に追いかけられて怪我をしそうだから他人の家に無断で逃げ込んだ場合、怪我をすることと住居に不法に侵入されることと比較して、怪我をすることを避ける方がより法益を守ることができるような場合である。

これが生命対生命のような場合は、その適用も正当防衛より更に厳しいものでなければならないのは当然である。

そして、正当防衛の場合も緊急避難の場合もどちらも緊急かつ他の手段では不可避の場合にのみ認められるものである。

これが個人が他の個人の生命を奪っても違法性が阻却される場合なのだから、国民一人一人が国家に信託する権限も国民一人一人よりは強大なものになるのは当然だが、それを越える権限であることはできない。

よって、国家が憲法第31条に認められると解される法律の手続きによって生命を奪われる場合も、緊急かつ他の手段では避けることができない場合のみ認められるべきである。

【憲法第31条】
何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

この条文を読んでも、死刑を想定したものではないことが読み取れる。

「若しくは」と「又は」の使い分けが分かっていれば理解できるだろうが、それが分かっていなくても句読点の位置で同じ理解はできるはずである。

この条文は
何人も、法律の定める手続によらなければ、「その生命若しくは自由を奪はれ」、又は「その他の刑罰を科せられ」ない。
という構造で、文末の「ない」は「奪われ」と「科せられ」の両方に掛かっていることが分かるだろう。

「その生命若しくは自由を奪われ」るのは刑罰と限定されていないのである。

だから例えば銃を持って乱射する者に対して警察官が法律の手続きにしたがって発砲し、もしそれによって死亡したとしても発砲した警察官は正当業務として違法性が阻却される。

よって憲法第31条における「その生命若しくは自由を奪われ」ることの中に死刑が含まれなくともこの条文の存在には何の影響もない。

ここまで読めばなぜ死刑制度を廃止するべきかその根拠も分かるはず。

死刑には正当防衛や緊急避難に必要な「緊急性」もなければ「それを避けるための他の手段」がないわけではない。

容疑者は逮捕されて拘束されているのだから緊急性がないのは当然のことであるし、拘束することが違法行為を避けるための他の手段になっているのもこれまた当然のことである。

国民にその容疑者を殺す権限がないように、国家にもその容疑者に死刑を求刑し処す権限はない。

これが民主主義における国家の権限の限界であることは当然のことである。

その当然のことが分からない義務教育で習う内容も怪しい人物が国家の宰相を務めると、この当然のことを当然と主張しなければならなくなる。

そして、その当然のことが当然ではないと感じる国民が増えて異端になったとき、その国の民主主義は自殺するのである。

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