高校に入学したてのころ、ある友達が、私に聞いたことがある。

 

A 「走るの想像して、息がくるしくなったり、汗が出ることってある?」

私「?????

ないよ????

そんなことあるの????」

A 「あるよ。」

 

この友人Aは、中学時代にあるスポーツで日本一になった人物。

私は、中学時代にチームで全国大会には出たものの、Aほど傑出した能力はなかった。

スポーツにある域まで打ち込んでいるなら、そのような感覚を持つものなのか、と

確認のために、私に話しかけたのだと思う。

私にとっては全くの異次元の話だった。

 

でも、練習の先に、そういう感覚も持つのだろうと、思った。

 

私はピアノをやっていた。

音楽を突き詰めていく人たちの特殊な感覚の話は、たまに耳にしていた。

 

世の中には、耳で音楽を聴いて、それを楽譜に起こすことを生業としている人もいる。

耳に音が入ると、音階が浮かんで、目の前の作業に集中できない。

3つや4つの和音を瞬時に正確に当てられるのも、私からしたら、一種の特殊能力だ。

 

だから、ある種の経験を経れば、脳に、常人には分からない感覚・機能が備わるのも、

納得がいった。

 

私に、そういう一種の特殊な感覚が発生したのは、たった2日間だった。

 

県駅伝の大会に出るメンバーを選ぶ上で大切な練習。

 

私が生き残るには、

接地から押し切るまで、不要な身体の揺れを極力なくし、

それを修正するための余計な体重移動・筋収縮を無くすことが必要だった。

頭のてっぺんから接地面までの重みの伝わり方、重力による倒れこみ、

色々なことを感じられるように集中した。

 

人の言葉が耳に入ると、

自然と、文明に身を置く人間の身に付いた癖として、脳がその言葉に反応する。

それが集中を妨げると感じ、

人の言葉が分からなくなればいい、と思って生きていた数週間の、終り頃だった。

 

その日、アップ途中に、ふと手を動かすと、何も持っていないのに、持っている感触があった。

刀のような何か。

振ると、しなる。持っていない何かがしなる重みをリアルに感じた。

地面を見て手を動かすと、

アスファルトのザラザラを引きずったときに伝わる、細かな振動を何も持たない手は感じた。

体内の芯(筋肉の収縮や骨で形成する、重みで崩れない、重みを伝えるライン)の調整の際、

よく刀をイメージしていた。

何か失敗した時に、イメージの上でだが、よく刀で体を切りつけていた。

そういう時の刀のイメージと、研いだ体の感覚が、影響したと思う。

 

その日の練習では、体の疲れ方がいつもと違った。

いつもよりパフォーマンスは明らかに高い。

でも、疲れたのは膝のすぐ裏の小さな筋肉と、背骨に沿った細い筋肉だった。

いつも、ここが疲れる感覚はなかった。

体の不要な揺れを、感知して、主に背骨同士をつなぐ筋肉の収縮でそれを相殺し、

最小限のエネルギーで姿勢補正して走った結果だろう。

 

パフォーマンスは上がったが、生活上の支障が起きた。

 

なんせ、教室にいる間は、人からの言葉にしっかり反応せず、

運動能力の高い人の動きを観察したり、自分の姿勢を意識したり、イメトレしたり。

 

家に帰ってからも、

体の感覚に集中したり、

その日の練習の反省や、これからでき得る工夫を、0時頃まで考えたりしていた。

 

人間として身につけてきた、

他人に対する感覚や、感情や、モラルや、思考が、消えていった。

意識的にそれを生み出す脳の反応を無くして、身体感覚に集中するように努めていて、

競技の面ではそれがいい成果を生み出したのだが、

様々な場面で、周りの人とトラブルになった。

周りの人間の感覚が、まるで分からなくなっていた。

 

速くなりたいという思考の招いた結果が恐ろしくなり、速くなろうとするのはやめた。

 

あれからもう、かなり時間が経つ。

 

多少、人間っぽくなって、社会生活も遅れていると思う。

 

もう、速くなりたい。

人間しながら。