皆様こんばんは。

昨日(1月13日)22時からNHK総合で放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』に、フリーランス校正者の大西寿男さんが出演されました。
大西さんとは、対談等で何度かお話しさせていただいたり、下北沢で一緒に飲ませていただいたことなどもありましたので、個人的にも今回の放送を非常に楽しみにしておりました。
そして実際の放送は、私の高めの予想をさらに上回る、素晴らしいものでした。
校正者・校閲者の孤独、苦悩、そしてその仕事の中にある微かな喜び、達成感のようなものが、大西さんの温かく素敵な人柄とともに描かれていました。
(なお、今回の放送での肩書はその内容からしても「校閲者」のほうが適切だったかもしれませんが、番組ではわかりやすさからか、大西さんのご意向か、なんらかの理由で「校正者」で統一されていました。これについては後述します)

私が一番感動したのは、パーティーか何かの席で、大西さんと、大西さんが校正を担当した作家の宇佐見りんさんが直接、会話を交わされていた場面です。
校正・校閲の仕事は、作家さんと直接会うことはほとんどなく、本当に手探りの状態で作家さんの意向をできるだけ酌み取りながら、ゲラ(試し刷り)上だけで対話する、ということを強いられるので、何が正解なのか、進んでいる方向・深度は正しいのか、わからなくなりそうになることがあります。ですから、作家さんから直で励ましの声を戴ける機会というのは貴重ですし、ポジティブな言葉をかけていただけるともれなく感動してしまいます。私ももらい泣きしそうになった場面でした。


「積極的受け身」という言葉にも、深く心に迫るものがありました。校正・校閲の仕事を本当に的確に表していらっしゃると。

そのほかにも、校正者・校閲者の日常もリアルに感じられる素晴らしいドキュメンタリーとなっています。
まだの方は是非見逃し配信などでご覧いただきたい番組です。


さてここからは、とある方から要望をいただきましたので、その放送内で取り上げられた校正者・校閲者の仕事内容等において、世間的には「?」となりそうな、なってもおかしくない部分についての解説を、勝手ながらも私なりに付け加えておきたいと思います。
というのも私は、校正・校閲という仕事の「本質」について考えることが好きで、それと同時にそういったことについて考えることはもはやこの仕事の一部のようなもので、とても大切なことであると考えているからです。このブログには過去にいくつかそういう記事を書きました。最近はラジオの話ばかりですみませんが。。。
以下、「プロフェッショナル」未見の方にとっては軽くネタバレのような側面もあるので、できれば番組を視聴してから読んで頂いたほうが分かりやすいと思います。

①そもそも「校正」と「校閲」の違いは何か?
番組では、なんらかの意向で「校正者」という肩書になっていましたが、大西さんの仕事内容はむしろ「校閲者」です。
「校正」は単に誤字脱字を拾ったり、修正箇所が正しく直っているか確認したり(←この作業についても重要ですが、番組内では時間の関係上か、もしくはわかりにくいためか、たまたまなかったのか割愛されていました)、あとは手書き原稿が誤植なく活字になっているかを一字一句確認する、というとても気の遠くなるような作業などを指します。最後に挙げたのは「逐字合わせ」「原稿合わせ」などと呼ばれますが、パソコンが普及していなかった30年前なんかはむしろこの作業が校正者にとってメインの仕事だったと言ってもよいでしょう。(もちろん今でも原稿合わせの仕事は割とあります)
それに対して、「校閲」というと例えば調べ物をして事実確認をしたり、時系列に矛盾がないか、差別用語は使われていないか、そして「誤読を招かないか」等…、文章全般についての総合的なチェックをしていく作業が色々と含まれてきます。
ただ、業界的には例えばギャラのことは「校閲料」とはほぼ言わず、ふつう「校正料」と言いますし、岩波書店では「校閲部」ではなく「校正部」との呼称ですが、実際の仕事内容としては「校閲」も含まれるでしょう。
このように、今回のケースでは「校正者」でも「校閲者」でも、あまり目くじらを立てる必要はないかと。私の以下の文章も区別なく書かせていただきます。

(ネット上では、ディレクターの方が最後の方で「校閲」と言っていたのにテロップは「校正」となっている、という指摘が散見されましたが…、まあ確かにここは分かりにくいところだったような気はします。)

いずれにせよ校正・校閲というのは媒体によってやり方が様々で、それを機械的に分類するのも非常に難しかったりするものなのです。小説の校正とカタログの校正が全く同じ手法ということはあり得ない、と言えば分かりやすいでしょうか。


②ギャラについて

放送後のネットを見ると「安い」「不当」という意見が多く、「正当な対価を支払わない業界は衰退していく」という、的を射ていると言わざるを得ないコメントも見受けられましたが、おおむね大西さんの仰る通りの水準であることが多いです。ただし。時と場合によりかなり上下します。

文芸作品や新書、文庫などの出版物において、フリーランスの場合は文字換算である場合が大半ではないでしょうか。他に一冊いくら、の場合や、出版社に派遣されたりどこかの印刷所で出張校正をするなどの場合は、時間で計算される場合もあります。

調べ物で割増になったりもしますが、文字数のファクターの方が大きいことが多いので、調べ物が大変なゲラほど「割に合わない」ことになってしまう傾向はあります。

そして、多くの出版社では校正・校閲は外注で、しかも校正は1人+編集者とか、場合によっては専任の校正者なしで編集者だけでゲラに穴があくくらい読み込んで(つまり編集者による校正のみで)校了、ということも往々にしてあるわけです。つまり「校正にかける予算ゼロ」のパターンすらあるということです。(追記しますが、これは出版不況でそうなってきている、と言うよりは、それ以前から普通にあることです。あくまで媒体の性格によりけりだったりするのです。)

ただここからは理想論を書きますが、校正・校閲は本来、2人以上でやるべきものです。1人では、どうしても限界が出てきますし、どんなキャリアを積んでも万能ではありません。2人以上の力をもってして初めて成り立つ作業なのです。

しかし前述のような「フリー校正1人+編集1人」で本を出すというケースが圧倒的に多い昨今、編集者によってはものすごくゲラを読み込む方もいれば意外とそうでもない方もいらっしゃったり(失礼)、それ以前にスケジュール的にどうしようもない場面などもあったりして、出版物の信頼性が損なわれうる、本当に綱渡りのケースというのは現場で頻発しているのです。

日本の出版文化を守るためにも、というと大げさですが、最低でも初校1人再校1人で延べ2人の校正者を付けて(最低でも、です。理想としては初校2人再校2人です)、出版物を世に送り出して欲しい、そして正当なギャラを支払う業界になって欲しい、と切に願います。



③校正者は奥付クレジットに載らないのか?

この疑問もネット上で散見されていましたが、奥付に載る出版社もありますし、著者が「あとがき」等で触れてくださる場合もあります。

ただ、どちらかというと「載りたくない」というのが多くの校正者の意見ではないでしょうか(笑)。

川上未映子さんに『すべて真夜中の恋人たち』という素晴らしい小説がありますが、この小説では校閲者が主人公で、「自分が校閲した本が本屋さんの棚に並んでいるのが怖い」と言います。誤植が残っているかもしれないから。誤植は、本当に厄介です。見つけても見つけても潜んでいることがあります。私もこの主人公と一緒で、自分が担当した本が出版されてもまだ「ほっと」はできず、重版がかかって「訂正なし」だったときに、やっと「あぁ良かったなあ」と、ささやかに思えるのみです。校正者は、本来表に出たくないのです。「あの本のここは間違いではないのか?」と指摘されるリスクがあるから。そんな中、長期の取材を引き受けられた大西さんは本当に凄いと尊敬しますし、本当に貴重なドキュメンタリーでした。



④「1行削る」指摘の場面など、校正というより編集の仕事ではないのか?編集は何をやっているのか?


これはネット上で②のギャラの話とともに多く見受けられた意見で、私も放送でこの描写が来た時に「これは…」と、胸が締め付けられました。

作家さんにとっては、校閲からの指摘があると表明することは元々の原稿に何らかの不備があったと思われる可能性があること、編集にとっても「お前の仕事は何だ?」と批判される可能性があることなど、リスクがある中、普段表に出ないゲラ上でのやりとりを、今回の番組では非常に具体的に、そして時間を割いて紹介していました。「こども食堂」の件も然りです。

それで、大西さんがご指摘されていた箇所については、確かに「校閲」というより「編集」の範疇ではないのか、と感じる方もいると思います。

ここがこの仕事のとても難しいところの一つなのですが、私からは「現場によってはそういう仕事を求められる場合がある」としか言いようがなく、それが良いか悪いかは何とも言えません。でも私も似たような指摘をしている可能性は十分にありますし、それが「求められている」現場が確かにあるということは事実なのです。


ただ、ここで多くの方が誤解していると思われるのが、「ゲラの動き」についてです。ここは是非、ご理解いただきたいところなのですが、まず作家さんから原稿を受け取った編集者は印刷所に「入稿」します(最近は自分で組版する場合もありますが)。そして出てきた「白ゲラ」と呼ばれる、何も指摘のない状態のまっさらなゲラを使って、校閲者が作業します。そしてそれを編集者に渡して、編集が校閲の疑問を斟酌したり編集からの指摘を書き加えるなどしてから作家さんにお渡しする、というのが通例です。(正確に言うと、編集も白ゲラを同時並行で読んでいて、校閲ゲラが戻ってきたら、そこに編集疑問を書き加えるというフローが多いです。)

「編集何やってんだ」と憤っている方々は、校閲がゲラを見る前に作家さんと編集者の間で綿密な打ち合わせや推敲が行われている、と思っているのかもしれませんが、そうでない場合も多いのです。勿論、入稿前に作家さんと編集の間でかなりブラッシュアップする場合もありますがそれは時間に余裕がある場合だけで、特に雑誌の場合は生原稿をそのまま入稿するパターンの方が遥かに多いのです。単行本においてもそのケースは往々にしてあります。

ですから、番組で放映されていたのは、編集が何か原稿に対しての指摘をするより前の段階、という可能性もあるので、ここは安易に批判すべきではないと私は思います。そして前もって揉んでいたとしても、編集者も全知全能の神ではありませんから。いやもちろん編集もっと仕事してくれ、というケースもありますけどね(笑)。(あ、冗談です…。)

また、作家さんは完璧であるべきで、校閲から色々指摘されるような作家はレベルが低い、とお思いの方もごく稀にいらっしゃるかもしれませんが、これはご自身で原稿を書いてみて、プロに一度校閲してもらうと、そんなことは決してないとわかります。書き手も気づかなかったような視点、言葉を紡いでいくうえでの僅かな綻びのようなものが、どんなに素晴らしい作家さんでも必ず出てくるのです。事実関係の誤認についても然り、どんなに優秀な大学教授でも間違えます。だから「査読」というものがあるのです。校閲も同じことです。

自分がその仕事をしているから言うわけではなく、校正・校閲というのは文章を世に送り出すときに必須の作業なのです。

だから逆に今回、インタビューに応えた作家さんは素晴らしいと思いますし、その辺のプロセスに自覚的でいらっしゃるので、個人的にはすごく好感が持てるところです。

この辺りのポイントについては、多くの人に理解していただきたいところでもありますが、なかなか難しいですかね。

また、校閲の指摘はあくまで指摘、お伺いを立てている立場なので、決してその通りに直さなければならないということではありません(無論、直さなければならない単純誤植もありますが)。ですから、作家さんには、ゲラ上に大きく「×」とか「ママ」とか書いていただいて構いませんし、むしろその辺りでこだわり、矜持が見えたりすることもあるのです。全てはよりよい出版物を世に出すためにやっていることです。やはりベテランの、読んでいて本当に面白い作家さんはゲラ上の対話もウィットに富んでいるというか、こちらがハッと襟を正し、そして感銘を受けるような書き込みが多い。


それから、ここが大事な点なのですが、編集者から校閲に「今回はバンバン疑問を出して欲しい」とか、「むしろ添削するくらいの気持ちで指摘してほしい」というオーダーが来ることって結構ありますし、逆に「疑問は最低限にして欲しい」というオーダーもあるのです。(というか、オーダーがあった方が校閲する立場としても方針がはっきりしていてやりやすいのです。)

先ほども書きましたが、媒体によって、そしてその時と場合によって校閲の仕方というのは千差万別で、だからこそ編集者との打ち合わせは本当に重要です。機械ではないのですから、100種類のゲラで100通りの校閲手法があって良いし、校閲者それぞれに流儀があっても良いのです(もちろん、最低限、やらなければならないラインというのは存在します。)




長くなってきましたね(笑)。とりあえず、以上です。ではまた!


注・この記事が知らず知らずのうちにものすごい数の方に読まれていることに今(15日21時)気づき、アイスココア吹き出しました。なんだこれは。

何点か書き足したり書き直したりしたのですが、あくまで「ブログ」ですから、もっと深く知りたいという方はそれこそ大西さんの著作を本屋さんで手に取る、等していただくことを強くオススメします。ブログはあくまで入り口としてください。

この点がまさに校閲してるか(=本)してないか(=ブログ)、みたいな話なんですよ、わかりますよね。。。