昨日、都内で犯罪被害者支援のシンポジウムが開かれました。
その中で6年前の松戸女子大生殺害放火事件で娘さんを亡くされたお母さんの講演がありましたが、その訴えは我々が真剣に向き合わなくてはならないものでした。

この事件では、1審の裁判員裁判は遺族が求めていた死刑を言い渡しましたが、裁判官だけで審理する2審はこれを取り消して無期懲役とし、それが今年2月3日の最高裁決定で確定しています。

この結末について、被害者のお母さんは、「1審の裁判員は丁寧に審理していたのに2審で取り消され、司法が信じられなくなった。一般の人の判断を反映させようと裁判員制度を導入した経緯からはこうした結末にならないはずで、制度の意義はなかったのではないか」と批判し、裁判員の判断を尊重するように訴えたのです。

2009年から始まった裁判員制度ですが、そもそも導入の大きな理由としては、従来の軽すぎた量刑に市民感覚を反映させ、失われていた司法への信頼を回復するというものがあったはずです。

しかしながら、昨年末までに裁判員裁判で下された22の死刑判決のうち、3件が破棄されて確定しています。

これらの最高裁の理由は、一言でいえば、1983年に示された「永山基準」から外れるということ。これまで死刑にあたるかどうかを判断する際に用いられてきた、犯行の動機、計画性、被害者の数などを検討する基準からすると、無期懲役が妥当だというのです。要するに、市民感覚の反映よりも裁判の前例との整合性を優先させたのです。

たしかに、これらによって司法へ不信をもってしまった国民は多いでしょう。しかし、その大きな原因は、個々の裁判結果よりも、裁判員制度が十分に議論・理解のないまま導入されてしまって、当然予想できたはずのこのような状況が検討されてこなかったことにあると思います。

裁判員裁判の導入は、日本の司法システムの大改革でした。しかしながら、一部の人間によってすすめられ、国民が置いてきぼりになった為に今のような状況が生まれているのです。


例えば、「裁判員裁判の結果が上級審で破棄されることもやむを得ない」と十分に議論されていたならば、それほど不信が生まれることはなかったでしょう。

過ぎたことを言っても仕方がありませんが、同様のことが続くであろうこと、それによってますます国民の信頼はなくなっていってしまうことが予想されます。よって、もう一度、裁判員制度について国民的な議論を行うべきです(日本人は一度つくったものは頑なに守ろうとする傾向が強いですが、このような制度は何度も議論をして改善すべきものです)。

そもそも、裁判員制度は必要なのか。

死刑の適用がある事件まで裁判員裁判の対象とすべきなのか。

死刑自体についてどう考えるのか。

裁判員裁判での量刑判断を上級審で破棄してよいのか。

裁判の公平性を考えるとき裁判員裁判導入前の裁判まで考慮しなければならないのか(永山基準を維持するのかどうかも含む)。

本件もVOTE JAPANで取り上げていきたいテーマの一つです。

皆さんは、どう思いますか?