連日のように悪質ないじめの実態が明らかになるなかで、大津市側も「いじめと自殺の因果関係があると思う」と認めざるを得ない状況になってきましたが、なぜこのような事が日本の教育現場では頻繁に起こるのでしょうか。



日本の小学校で約1年間過ごした私にもいじめられた経験があります。
放課後、毎日のように数名のいじめっこに取り囲まれ、「アフリカ人はアフリカに帰れ!」と言われながら、押されたり、蹴られたり、唾を吐かれたりしました。ランドセルを無理やり取られ、木の上や、塀の反対側に投げられたりもしました。
毎日傷だらけになって帰ってきても理由を語らない私を見て心配になった母が、担任の先生に幾度も相談に行ったそうです(後から教えられました)。しかし、何度聞いても「私のクラスでいじめなどはありません」と同じ答えが返ってきたそうです。



いじめが今回のような事件に結びついてしまう原因も、根っこにあるのは、原発事故の問題と同じではないかと思っています。組織やしがらみの中で、安全委員会や保安院が形式だけのチェックを行っていたように、ただの名誉職となった教育委員会も、形骸化してしまっているのです。現場の教育者達も、保身の為に隠ぺいすることが当たり前になってきている。結局は試験に受かっただけの、実社会を知らない人達だけで、改善も成長も未来の展望もない「村」を作り上げてしまう。



私は以前から(タリーズ時代から)、教員も、官僚も、人を指導するポジションに立つ人たちは最低でも5、6年は民間で働き、社会で経験を積むべきだと主張してきています。
とくに学校は、子供たちが「社会」に立つために必要な事を学ぶ、大切なトレーニングの場でもあります。社会経験が無い人たちが、どうやって子供たちに教えると言うのでしょうか。そして、現場のトップである校長にも権限を与え、責任の所在を明確にする。校長先生は、最前線で戦う小部隊の隊長です。隊長に人事権などがなければ、組織がワークするわけがありません。



みんなの党は、教育委員会の形骸化を問題視し、教育行政の責任の所在を明確にするために「地方教育行政改革推進法案」を提出しています。この法案では、首長が公立学校の教育目標を設定でき、各自治体が教育委員会を設置するかしないかを選択できる制度にしています。



とにかく、この悲しい事件から我々は学んで成長しなくてはいけません。そうでなければ、今回自殺した13歳の男の子や、過去のいじめの犠牲者に申し訳がありません。いじめの文化を無くすことは日本を成長させるきっかけにもなる筈です。
私も、この問題を引き続き注視し、改善の為に関わっていきたいと思います。