幸運の宝箱 -4ページ目

幸運の宝箱

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この前、友人が家に遊びに来ていたときのこと。「ちょっと、いい加減テレビ買ったほうがいいって~。DVDとかも今時安いの沢山あるんだよ~。買いにいくのも付き合うから!」と。

まあ、そう言われるのはよくわかります。私の家のテレビは、もう10年選手だし(笑)。今時、DVD持ってないし(笑)。私は「だって、別に観れればいいかなって思うし、次から次へと新しいの出てきてるから、どのタイミングで買えばいいかわからないんだもん。」と言ってはみたものの、次回買いものに付き合ってもらうことにしました

ほんと、私はそういうものに興味がないんですよね~。見えないものにばっかり興味あって、そっちにはかな~りお金使うんですけど。食事、エステ、旅行などなど。これって浪費なのかなあと思うこともありますがね。
「武士の一分」を観ていて、武士の本分とは何なのかと思い返してみるに、その行き着く先はずっと前に取り上げた「葉隠」に行きつく。

例えば次にような聞書から武士のあるべき姿が浮かび上がってくる。

武士が意地を立てるときは行過ぎたと思われるくらいにした方がよい。いい加減なところで妥協しては後々の評判が芳しくなくなる。やり過ぎたと思ってやった方がかえって仕損じがないものだ。ある人の話だが法会の後渡船の中で酒に酔った小姓が船頭と喧嘩になり刀を抜いて切り掛ったが先に船頭が竿で頭を叩き、そして付近にいた船頭たちも櫂で打ちのめした。ところが主人はそれを見ながら知らぬ顔で通り過ぎ別の小姓が一人走り帰って船頭に侘びをいれなだめて小姓を連れて帰ったという。そして小姓はその後浪人にされたそうである。これを思うに主人はまず船中で酒乱の小姓を叱り、そして船頭をなだめなければならない。しかしこちらに非があっても侍が頭を打たれた以上、船頭に詫びる振りをして近付き船頭を切り捨て、同時に酒乱の小姓をも切り捨てるのが本分だ。

打ち据えられた小姓を置き去りにして去った主人の行いは良くないとしても、元は言えば酒の上での喧嘩であり捨て置いた主人の対応は最もなことである。それを喧嘩の両人をその場で切り捨てることが武士の本分とは自身が所属する武士階級という特権を維持するための自己本位の暴挙であり心得違いも甚だしく許されることではない、仮にそのようなことが許されるとしたらそのような社会は異常そのものである。よってこれが武士の本分とは思わない、以下の文章が私は武士の一念だと思う。

人は立ち上がるときがなくてはものにならない、人から頭を踏まれぐずぐずとして一生を終えることは口惜しいことだ。人の一生などというものは真に夢のように果かないものだから白黒がはっきりしてから死にたいものである。「誰しも鬼神ではない、自分が劣るいわれは少しもない。もし乗り越えることができなかったら腹かき切って死のう」と決心して一思いに立ち上がることだ。万事経験を積んでからというのではなくて一念発起したら直ちに前進あるのみである。しかし志はあっても障害に阻まれ目的を達すること適わぬこともある。その時は「吹毛をも断ち切る剣を握って触着するところことごとく切り捨てる」という気概で踏ん張ればよい。

武士は目先のことで立ち上がるのではない、自分の一生というものは見据えて立ち上がるということなのであり、それが本分なのである。これは武士だけの話ではない、現在にも通じる処世訓である。人間として生きていく上で何が自分の本分かを決めたらその完結に向けて一気に突き進むべきで、仮に障害があってもあらゆる手立てを駆使して事態の進展に執着し完成させなければならない。私は入社試験の面接の時「設計をしたい」ということを宣言し、「会社には多くの設計者がいるが何をしたいか」と聞かれ、臆面もなく「誰にも負けない設計したい」と答えた。それから「設計は創造である」という理念で突き進んだ、それは会社の理念即ち利益を生み出すことには直結しないが、どの会社にも負けない製品を作るという理念には合致していたと想っている。

人生は勝つことではない、負けないことだ。
仏門は慈悲の心を表現しそれでいて心底に強い勇気を蓄えているいうのでなければ仏道を極めることはできない。同様に武士は勇気を表現し心中には腹が破れるほどの大慈悲心を持っているというのでなければ武士としての本分を貫くことはできない。故に仏門は武士に見習い勇気を求め、武士は仏門の持っている慈悲の心を求めなければならない。私は年来僧侶の生活をしているが同じ仏門の先輩に会って修行の手係りを掴んだことは一度もない。だから世に優れた勇士がいると聞けば道の難儀も厭わずに何処へでも訪ねて武道の話を聞くことにしているが、これこそ仏道の修行には何よりの助けになったと確信している。言ってみれば武士は武器を持っているからこそそれを力にして敵陣へも斬り込めるのである。仏門には数珠しかない、その数珠一連で武器の群がる中へ飛び込んで行こうというのであるから柔和だとか慈悲とかだけではどうにもならない。武士に劣らない大勇気がなくては飛び込んで行くことはできない。

しかるに近頃仏門は詰らないことに精を出し神妙で柔和であればよいと考えて真の道を達成する者はいない。それすらどうかと思うのに更に武士に仏道をすすめ役にも立たない骨抜きの武士をつくっている、残念なことである。歳の若い武士が仏の教えを聞いたりすることはもっての他の間違いである。武士というものは武道ただ一筋でなければ役に立たないのである。隠居して暇の有り余っている老人が気晴らしに仏の教えを聞くのならそれはそれでよい。およそ武士というものは忠孝とを片方の荷物、勇気と慈悲とをもう一方の荷物、二つの荷物をしょっちゅう肩にめり込むほど担っておればそれで武士の本分が立つものだ。
ここで取り上げている高齢化問題の解決法は米国の話である、日本の事情に適合できるのかどうかはさっぱり判らない。

社会保障信託基金が発表しているデータによると、生産性が1.5%から3.5%へ上昇するだけで、年金基金は次の75年間に必要な資金が得られることになろう。経済成長率の上昇が民間の年金基金に与える影響を示すデータはないが、生産性が向上すればベビーブーマーが保有する資産を吸収するだけの購買力を確保するのは確かだ。

しかし長期間にわたって生じる高齢化の問題を、生産性の向上という一つの方法に頼ることは非常にリスクが高い。経済学者の多くは経済成長の長期予測を2.5%に引き上げたが、3.5%まで上昇するという者はわずかである。これでは米国の経済成長にだけ頼っていては、高齢化の問題は解決しない。問題の解決には世界規模で取り組む必要があるだろう。

高齢化は先進国に限定した問題である。発展途上国の人口は恒常的に増え続けている。その存在は先進国の高齢化問題の解決法の一つとして考えることができる。そして結論として世界的規模で生産性の向上と人口の増加が続く限り、米国をはじめとする先進国の高齢化は、長期的にはそれほど深刻な影響を株式市場にもたらすことはないかもしれない。

結構なご託宣であるが先進国の高齢化問題を発展途上国の経済成長で補おうとするこの発想は随分と手前勝手な考えであり、如何にも米国らしい思い上がった独善的な解決策である。発展途上国の人口増加が今後も続くという保証が何処にあるのか。そして発展途上国が今後も経済成長する根拠は何に基くのか。過去のデータでそうであっても未来もそうなるという保証はないのではないか。

元々単なる予測に過ぎないのであるから明るい見通しの方がいいわけで、目くじらを立てるほどのことではない。何も先のことはわからないのであるから静観しているしかない。
以前から朝散歩をする時によく見かけていた老犬を散歩させている老人を最近は殆ど見かけることはなくなった。私自身今は日の出が遅く散歩の時間を遅らしているので、時間に正確に合わせて犬を散歩させているとすると会わなくなった可能性はある。

夏の暑い頃はバス停のベンチに爺さんが越しかけその前の地べたに犬がへたり込んでおり何時もうちわで扇いで貰っていた。幸せな犬だなと思って眺めていたがそのような光景もここ最近は全く見ることはなくなっていた。暑い最中よたよたと歩いていた老犬はわずかばかりの餌を食べては周囲のことに興味を示すわけではなくただ機械的に歩いていた。若くて元気な犬はすれ違う時必ず匂いを嗅ぎにきて飼い主に引き戻されるのであるが、あの老犬は一度として近付いてくることはなかった。他の犬が側を通過しようと興味はないようですっかり枯れ切った存在となり唯我独尊の悟りの境地に入っているのではないかと思われるほど無感動な様子であったので、私もそのような境地に入りたいと日夜思っていた。そしてついに老犬はあの世に旅立ってしまったのかとてっきり思っていた。

ところが今日偶然にもその老犬を散歩させている老人に出くわしたのである、犬は以前は夏ばてしていたのか前より元気に歩いている。問題は老人の方である、口には顔が隠れてしまいそうなほど大きなマスクをしておりすっかりしょぼくれた状態になっているではないか。そして犬は元気に歩いているのに今度は老人がとぼとぼと歩いている。

仲良くこの夏を乗り切って欲しいと願いながらその後姿を見送った。またこの次何時会えるであろうか。