このたび発生しました 西日本豪雨 では、
広島県 ・ 岡山県 を中心に多数の犠牲者ならびに
氾濫、土砂の流入で被災された方が相当数おられ、
避難所生活をされておられるとのこと
たいへん心痛みます。
心よりお見舞い申し上げます。
復旧活動が一日も早く進みますことを願っています。
一昨年、北海道も 十勝、富良野地域 が台風による洪水被害が
ありましたので、私たちも大変気になっています。
私の住む札幌の隣りの 北広島市 は、明治初めに
広島県から103名の方 が入植され開拓された地でありますので
すぐに募金活動を開始されたそうです。
北海道新聞 7月12日号 より
『 今週のカレンダー 』
7月 18日 (水) ~ 「 大安の日 」 です。
7月 16日 (月) ~ 国民の祝日で 「 海の日 」 です。
7月の第3月曜日と定められています。
「祝日法」によりますと、
「 海の恩恵に感謝し、海洋国日本の繁栄を願う 」 という
趣旨だそうですが、世界で 「海の日」 を祝日にしている国は
日本だけらしいです。
海のない県として、奈良県はこの日を
「 奈良県山の日・川の日 」 とユニークな定め方をしています。
『 今週の記念日 ・ 話題曲 』 (合併号)
7月 21日 (土) ~ 1985年に代表曲の
『 愛傷歌 』 が発売されました。
紅白2度目のトリ でかつ大役の 紅組司会 を
務められ、いまでも この曲は
「 涙、涙の絶唱シーン 」 で注目されています。
作詞~石本美由起先生、 作曲・編曲~三木たかし先生
『 昌子さんと石本先生と三木先生
珍しい組合せによる
珍しい3曲だけの 作品集 』
(その1) ~ 昌子さんの場合
1983年に 越冬つばめ で
「 日本レコード大賞 最優秀歌唱賞 」 を受賞された
昌子さんにとって
次の目標 や 目指すべき次の
ステップ はありませんでした。
昌子さんの 目標は、 つねに
「 温かい家庭 の 明るい母親 」 でした。
1971年秋、 「 スター誕生! 」
一次審査合格後の 「 面接 」 では
『 私は出る気なんてなかったんです。叔母さんと
そごうでお買い物して、そのまま連れられて
来ただけです。 』
と話されていたそうです。
当時 12歳の 昌子さんは、 その後15年間にわたって
阿久悠先生 ~ 石本美由起先生
遠藤実先生 ~ 三木たかし先生
数多くの先生方との 「 出会い 」 があり、
コンサート、劇場公演( 新宿コマなど ) 、映画 ・ テレビドラマ に
数多く 出演されました。
3才頃から 始まった 歌わされていた人生
に 終わりを告げる曲が 1986年5月発売の
『 孤愁人 』 でした。
昌子さんの 「 つくられた15年間 」 から
解放された想い のシングル曲でもあり、
コンサートでは、第2の人生へ向けて
昌子さんの表情は、心地よいリズムに乗り
楽しく、やりきった感じで
歌っておられました。
最後のフレーズ
♪みんな独り 私も独り これが生きる さだめ♪ が
印象的ですね。
(その2) ~ 石本美由起先生の場合
参考に 「 3人の生まれ年 」 を較べますと、
昌子さんが 1958年 (昭和33年)
三木先生は 1945年 (昭和20年)
石本先生は 1924年 (大正13年) でした。
さらに
『 愛傷歌 』 発売の頃ですと、
昌子さん 26歳..........三木先生 40歳............石本先生 61歳
これは 運命のめぐり逢い でしょうか。
石本美由起先生 といえば、
昭和歌謡を代表する作詞家 で
コロムビアレコード 専属でしたので、あの有名作曲家
つまり 上原げんと、古賀政男、船村徹、市川昭介 (敬称略)
の先生方とコンビを組む機会が多く、ヒット曲やレコード大賞曲の
ヒットメーカーとして作詞界の大御所的存在でした。
たとえば
美空ひばり さんでは、
「港町十三番地」、「哀愁波止場」、「悲しい酒」、「人生一路」
島倉千代子 さんの 「逢いたいなァ あの人に」
都 はるみ さんの 「馬鹿っちょ出船」
6月17日号で ご紹介しました 岡 晴夫 さんの
「逢いたかったぜ」 も 石本先生作品 です。
日本レコード大賞曲の作品では、
1983年の 「矢切の渡し」、1984年の 「長良川艶歌」 で受賞されました。
昌子さんの 『 愛傷歌 』 も1985年の候補曲として
先生方やスタッフの皆さんは、目指していたと思います。
しかし、そこへ横やりを入れたのが NHKさんでした。
昌子さんに 紅白の紅組司会と紅組トリ
NHKさんの大胆な戦略は、 先生方の思惑とは反対に
昌子さんを 「 結婚 ・ 引退の道 」
へと 進ませた形となりました。
石本美由起先生は、
美空ひばり さんから 昌子さん まで
「愛の詩」 を創るのに、年齢は関係ないんですね。
(その3) ~ 三木たかし先生の場合
もともとは歌手志望で、 船村徹先生 の門下生でしたが
船村先生 の 君は、作曲家に向いている
の一言から 作曲家へ転向し、
1968年 先に歌手デビューされていた 実妹の 黛 ジュン
さんの 「夕月」 のヒットで有名になられました。
そして、 1969年に 森山良子 さんの 「禁じられた恋」
1977年には 石川さゆり さんの 「津軽海峡・冬景色」 が
続けて 大ヒットしました。
1984年からは、 「無二の親友」でもあります 荒木とよひさ先生
とのコンビで テレサ・テン さんが歌う 「つぐない」、「愛人」
などの作品で 「一流作曲家の仲間入り」 されました。
三木たかし先生 の作品は、作詞の多くが
阿久悠先生、なかにし礼先生、荒木とよひさ先生 とのコンビ
で作られていて、
石本先生 との作品は いままでありませんでした。
昌子さんの 『 愛傷歌 』 は、
三木先生 にとっても 新たな演歌 の曲作りの
チャンスだったように思います。
しかし、 昌子さんの結婚 ・ 引退表明 でわずか一年間の
お付き合い となりました。
三木たかし先生の曲は、
詞を聴かせるメロディー作りに
特徴がありますね。
(その4) ~
『 15年間の集大成 』 として
誕生した ファイナル曲
1986年6月の 昌子さん、結婚 ・ 引退発表 をうけて
急遽 制作されたのが、
『 いつまでも~愛彩川~ 』 でした。
昌子さん、 石本先生、 三木先生 の3人が
それぞれの人生を燃やして
創りあげた 作品だと思います。
石本美由起先生 の華麗な詩の世界から
とび出た 哀感深い女性の心 を
三木たかし先生 は
ピアノの イントロ から始まり、ストリングスが奏でる
静かな アレンジ に乗せながら
優しく包みこむ「そよ風」 のようなメロディー で
昌子さんの
もの哀しくも 美しい 爽やかな歌声 によって
懐かしい洋画を想い起こしてしまう
ほどの 完成された 素晴らしい曲のように思います。
ずっと、目を閉じて聴いていたい ほど
美しい曲です。
最後に 仮定のお話しですが、
もしかしたら・・・
引退が少しあとなら・・・
この曲以上の スケールの大きい 楽曲が
石本先生、三木先生 のお二人の手で創られ
昌子さんの輝く歌声 で歌唱された
『 日本レコード大賞曲 』 が
式典会場に 響き渡っているシーン を
ついつい 想いめぐらせてしまう 私です。