第五坑西側坑口

坑口は高さ2.5m、幅3m。コンクリート製のアーチ構造です。
5度の傾斜で地下に伸びる坑道には、10mおきに台座があり、周辺からベルトのようなゴム片が見つかったことから、ベルトコンベアーのための坑道だったとみられています。竪坑から堀り上げられた石炭は、北に延びる約70mの地下道を運ばれ、この坑道を通じて選炭場まで送られていたものと考えられます。(案内板より)
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第八坑連卸坑口

1938年(昭和13)に完成した煉瓦製の坑口で、隣の本卸坑口と対になっています。
傾斜角は30度、延長距離は929.1mありましたが、現在では内部で閉じられ、中に入ることはできません。本卸坑口よりもわずかに小さい高さ3.15m、幅4.5mのコンクリート製アーチ構造で、巻上機が坑口からおよそ100mの位置にあって、トロッコを使って硬(ぼた)や資材、あるいは人を運んでいました。
ここから運びだされた硬は、北側にあるぼた山へ積み上げられました。他にも排気や本卸との連絡、配水など様々な用途で使われていました。(案内板より)
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ボタ山(西原硬山)
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珍しく早めの更新。
いつもなら忘れた頃(数ヶ月後)なのに[みんな:01]



THE夏晴れ
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今回は今津の元寇防塁。
他は行ったことあったけど、ここだけはない[みんな:02]


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埋れてるから土塁みたい。


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案内板
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ここは、大隅・日向国がつくった模様。






蒙古襲来【もうこしゅうらい】、日本が国外から受けた初めての侵攻である。
1206年にモンゴル帝国を造ったチンギス・ハンの孫で第五代皇帝のフビライは1271年に国号を元【げん】とし、当時の南宋【なんそう:中国】を統一、高麗【こうらい:朝鮮】も服属させた。 さらには日本をも従えようと使者を送るが、鎌倉幕府・執権 北条時宗はこれを拒否した。
それにより文永11年(1274)、元の大軍が九州・博多湾に押し寄せることとなる。いわゆる文永の役が勃発した。

この石垣による元寇防塁は文永の役後、蒙古の再度の襲来に備え、ここ今津から香椎までの要所に総延長20Kmにおよび築かれたものである。

 国指定史跡(昭和6年3月指定)
(説明より)





ここから柵で囲まれてる!
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ここは、フェンスで囲まれてるから中に入れず。
国指定だからかな。
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二重隅櫓から東南に伸びる腰曲輪の高石垣。昭和・平成の大修理
を受けているだけに、かなり綺麗合格

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下の橋
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下の橋は、南部家第27代当主(第2代藩主)南部利直によって、盛岡城築城にあわせて中津川にかけられた「上の橋」、「中の橋」、「下の橋」のうちの一つで、1612(慶長17)年に架けられた。上の橋や中の橋同様、何度も洪水による橋の流出に見舞われた。ちなみに下の橋の擬宝珠は、1910(明治43)年の洪水で流されて、洋式橋に掛け替えられた中の橋のものを移築したものであり、もともと下の橋には擬宝珠がなかったという。現在の下の橋は1911(大正元)年に架けられたもの。
(説明より)



淡路丸から降りてきたとこに鉄鎖
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二の丸のはばき石垣
石垣の崩落を補強すること。
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自然の岩を石垣に。


見所の烏帽子岩が見えてるー(^-^)
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大きな岩、多いなぁー^^;



瓦御門へ
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枡形虎口合格





下曲輪にある櫻山神社
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神門
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バタバタホテルに戻り、レンタカーを借りに行きました(笑)