古希綴り 下書き その40 | 手作り酵素で妻の癌を治す

手作り酵素で妻の癌を治す

     ~酵素のある暮らし~

最後の現場監督

 

国内では、かなり大きなジョブ(現地2年)を任され、ソフトの仕様を学ぶためにと、本社へ単身赴任で移動させられます。 

現地ではソフトを見る暇もないジョブと解っていながら、しかたなく1LDKの社宅で、1年ほど本社の近くで暮しました。

 

月1、2回は帰っていましたが、半年ほどするとディズニーランドへ行きたいと言われ、クリスマス前に家族を呼んで、夜遅くまで遊びます。 

その夜は、1LDKの狭い部屋に4人で寝ました。

 

「添い寝する 吾子の寝息の 師走かな」 季語:師走 晩冬

 

翌日は、東京タワーや上野を見て歩きます。 

東京タワーは、運よく階段で上りました。 

見送りの新幹線で、息子が泣きながら 「一緒に帰ろう」 と言っていたことが、忘れられません。

 

翌年、徳島の阿南市に2DKのアパートを6部屋借りて、6人で現地入りします。 

毎週金曜日は、私の部屋で夕食を食べることに決めて、 メニューは当時、人気のあった 「どっちの料理ショー(関口宏、三宅裕司)」 の番組の勝ったほうの料理を、よく作りました。

 

「仕事終え みんなで焼いた 秋刀魚かな」 秋刀魚:晩秋

 

6人分の料理を毎週作っていましたが、庭で焼いたサンマの煙が懐かしく思えます。

 

現場の最後の仕事は、竣工式の時に、大型スクリーンに映すグラフィックの絵を作ることです。 

その写真は、 「太龍寺」 から 「橘湾の発電所」 を眺めた景色と決まりました。

 

「太龍寺 登る遍路の 人もなく 最後のジョブの 山の静けさ」 

 

四国21番札所の太龍寺(標高600m)へは、ロープウエイを使わずに2度歩いて登りましたが、その山道は険しく静かな道でした。

 

16年後の車でのお遍路の旅では、ロープウエイで景色を楽しみながら巡礼しました。



 

あと1年ほど続くジョブでしたが、現地での24時間体制をあと1年も続ける気力がなくなり、そろそろ息子と遊びたいと思い、2000年3月に引継ぎをして、出張の少ない部署へ移りました。