故郷の空と山河と友たち | 甲州さとみの温かいいのちー心整体ー

故郷の空と山河と友たち

【故郷の空と山河と友たち】



私は、山形県の北の方、秋田寄りの、雪深い山村で生まれ育ちました。

お盆の帰省では、今回同級会が開かれ出席、

澄んだ空も青々とした山河も渡って行く風も、友たちの本質も、あの頃と何変わっていない。

自分の原点に立ち返り、またそこから再出発できるような、そんな元気が湧いてきました。


山形県最上郡戸沢村角川、山深い小さな農村集落。

私たちの代では1学年1クラス、長い付き合いの友とは、幼稚園から中学まで、高校までも一緒の友もいました。

それぞれに時を重ね年を重ね、同級生には先に旅立った人が数人いて、それぞれの寿命を思います。

静かな悠々とした空と大地に育まれ、季節毎の遊びに興じ、学舎で机を並べた友たち、

命の長さは誰も知らないから、今一度友と会いたい、そう思い同級会へ向かいました。

40人のクラスで26人が集合し、会ったとたん一瞬であの頃にタイムスリップ。

故郷の空も山河も、私を決めつけない分けないの分別しないように、友たちも私を何も分別しない。

友たちと一緒に膝を交え肩寄せているのが、子供の頃と同じように、ただただ嬉しく楽しい、という身体的共感に包まれていました。

そこには私たちの社会の日常の、優劣、上下、多少、大小、美醜などの分別のモノサシが無かった。

大人になってからは、子供の小さい欲が大きく増長した勝つことに固執し、地位や富を幸せの形として求め自分をはめ込もうとし、自分が過大に認められることに執着して、

社会の比較と競争のモノサシに振り回されている。

ありのままの自分ではなく、誰かより上に、誰かより優れて、多くを持たなければならない、今以上の自分に、何者かにならなければならないと。

童心は、
未来への不安より燦々と輝く希望が多く、偽ったり飾ったりすることよりありのままが多く、苦しいこと悲しいことより楽しく心踊ることが多く、
いつの間にか眠りに落ち、いつの間にか目覚めて飛び出していった日々。

憂いや煩いの苦しみの多い大人。自分以上のものにならなければならない大人。

しかしそれは、人が進化する上でとても大事なことでもあります。

使命や役割が人を伸ばし、背負う重さが人を大きくするから、欲や執着が、人間の成長を牽引するものでもあると言えます。


そんな日々にあって、あの日、ただ一時のつかの間、分別しない空と山河に抱かれて、分別しない友たちにまみえて、分別のない童心に帰った。

心に抱え込んだ荷物を降ろして、人生の出発点、私の原点・原風景に帰った。

本来の「自己」に、本来の存在に帰った。

成長と共にいろいろな分別を身につけて、比較競争に身を沈めて「自我」となって久しい。

本来の分別のない世界にいることの至上の嬉しさ楽しさ、私が全身で感じた燃え盛る太陽のような強烈な歓び。

それは、時が経っても、燦々と心の深いところにあり、歓びと力が湧き出し、この先も決して途絶えたり消えたりしないだろう。


そうした私たちの本質の燦々とした歓びと力を体験し、その後に、その力が向かう先を、あらためてはっきりと見定めました。

私たちの肉体は寿命があって有限ですが、精神は伝えていくことによって時を超え無限に、有限な人間が無限に生きる。

時代が変わっても変わらない大事なこと、それを歴史や先人から学ぶ読書や伝統文化などを受け継ぎ伝えていくことが、有限の肉体を超えて、精神で無限に生きることだと思います。

そして
今、私ができる限り進まないと、千年先に咲く花も咲かない。
だから、有限なこの身の内にも、できる限り前へ進もう。
誰もが、何の仕事も、それは同じことだと思います。
さぁ、無限を生きて行きましょう。