従来の五・七・五にとらわれない俳句がある。「自由律」と言う。感情をより直接表現する方法である。語調が整っていないので最初は違和感がある。しかしそれは規則を守ろうとする為の語句の選定や韻を踏むなどの余計な(でもないけど)努力が不要な分、直接感情を詠み込みやすい。技巧的でなく素朴、季語も不要(勿論あってもいい)。その時々で感性の赴くままポツンと口から出た言葉を書き留めた自由律の俳句は短い日記や文字のスナップ写真のようでおもしろい。
種田山頭火(たねだ さんとうか)はその代表者である。全国を托鉢僧姿で放浪行脚しながら句をつくった。
── 分け入っても分け入っても青い山 ──
── ここで泊ろうつくつくぼふし ──
── うつむいて石ころばかり ──
山頭火像 このような托鉢僧姿で行脚した
うつむいて石ころばかり・・・・・
山頭火生家 山口県防府市
彼は明治末から昭和にかけての俳人である。(1882年~1940年)生まれは山口県防府市。(ここは筆者が8年間の子供時代過ごした地でもある)大地主の長男。9歳の時、結核療養中の母が自宅の井戸に投身自殺した(一説では山頭火11歳時とも)。父が芸者遊びなどしているのを苦にしたようだ。
この実家の近くには三田尻(みたじり)港がある。ここはその昔 瀬戸内を跋扈した村上水軍の船着き場があり遊郭が栄えていた。(現在は埋め立てが進み港からは1~2kmの距離がある) 私は子供の頃近くに住んでいたが、この界隈だけ黒の格子を持った家々が並んでおり異様な風情を感じたものだった。遊郭の件はずっと後になって同地在住の親戚から聞いて、子供心に感じた風情に納得。
また山頭火の実家のすぐ近くには日本三大天満宮の一つである防府天満宮がある。(初建立の天満宮) 他は北野天満宮・大宰府天満宮である。この地の言い伝えによれば、流罪となった菅原道真が大宰府へ向かう途中で三田尻に立ち寄った際、人々は彼を手厚くもてなしたと言う。地元民はこれを誇りにしている。逸話は「勝間人の深情け」として私の母校「勝間小学校」の校歌にも出て来る。
防府天満宮
横道にそれたが、この母の死の記憶が山頭火の一生を貫いているようだ。号は陰陽道などの占いから引用されているようだが山頭は火葬場 、火は火葬場の火の意味もある。母の死に由来しているのかも知れない。
早稲田中退(神経症の為) 後、家の酒造りを手伝う。結婚後 しばらくは平和な生活をする。この頃 萩原井泉水(おぎはらせいせんすい)に師事し自由律俳句を提案、井泉水主宰する俳句雑誌「層雲」に投稿を始める。 やがて家業は行き詰まり破産し家を売却する。父は行方不明となる。
層雲とは地には着かず低くたなびく雲の事
1916年(T5 34歳)知人の紹介で妻子共に熊本へ。しばらくして郷里で養子に出されていた弟が自殺。山頭火35歳、弟31歳の時だった。
1919年(T8 37歳)単独上京し仕事に就くが震災に合い熊本の妻子元に逃げ帰る。その後、友人*の計らいで得度。廃観音堂の寺男となり小さな古本屋を開く。仕事の傍ら近所の子供に学問を教え、俳句もつくる。しかし度々飲酒による酩酊を晒し 周囲から信用を失墜する。
*この友人とは「層雲」を通じて山頭火を知った木村緑平である。三井炭鉱の医師をしており 長く山頭火のパトロン的存在となった。自身も同誌にいくつもの句を投稿している。放浪先から数百回に渡る金銭の無心をする困り者の山頭火に、各地の郵便局留めで現金を送っている。小郡(おごおり:山口県)に庵を結ぶ際にも資金提供し、援助の総額は数千万円にも上ると言われている。山頭火にはこの他、息子からの月々の仕送りも受けている。
1925年(T15 43歳)のある日、妻子を残したまま(戸籍上は離婚)托鉢僧の姿で飄然と流浪の旅に出る。九州から西日本一帯 そして東北まで、各地を行脚放浪する生活はほぼ一生続く。雑誌「層雲」への投稿は続けている。
放浪中の山頭火 常に母の位牌を持ち歩き、その途中で多くの句を詠んでいる。
── うどんを供えて母よわたしもいただきまする ──
また孤独もこたえていたようで 物悲しい句も多い。
── 鴉(からす)啼(な)いてわたしもひとり ──
── 年とれば故郷こひしいつくつくぼふし ──
── 秋風の石を拾ふ ──
── まっすぐな道でさみしい ──
── たれもかへる家はあるゆふべのゆきき ──
ひょっとしたら放浪中、付近の家からは夕げの匂いがしたのかも知れない。あの醤油を煮しめた胃にグッと来る匂いを嗅ぐと私は子供時代の団欒の記憶が甦って来る。
ある時 彼は乞食同然のまま久しぶりに故郷に足を踏み入れた。変わり果てた自分と、無垢の時代の自己を育んだ故郷。だが母の死地でもある。その日は雨だった。
── 雨降りのふるさとは はだしであるく ──
う~む 分かる! いわくつきの故郷だが無条件で受け入れ、なお余りある気持ち。そして長い旅路で喉が渇き切った彼は付近の清水を飲む。
── ふるさとの水を 腹いっぱい ──
故郷や拭えぬ母の記憶に対する思慕は一言もない。彼の句は郷愁の強さをただ語りかけて来る。しかし母への思慕が郷愁に重なっているに違いない。
私が20数年ぶりに神戸を訪れた際(10代の頃の8年在住)、神戸駅を降りると駅前のコンクリート床に伏して大地を抱きしめたい衝動に駆られたものだ。そして行きかう人々全てに握手をしたいという気持ち・・・・ 変? あの時の気持ちを思い出させる。
以降彼はしばらく故郷近くの村に住み、ひっそりと「ふるさと」に出向く頃もあった。そしてまた放浪の旅に出るのだ。当てもなく、急ぐ理由などない。山に入ればのんびりとかっこうが鳴いている。
── あるけばかっこういそげばかっこう ──
悠久の自然の流れの中で、人間だけが何かしら「急がねばならない」時があるようだ。そして「何かの意味」や、「有意義な時間」「正義」や「真理」を求めようとする。そして最後まで結論は出ない。だがそれには沈黙し、或いは何かを悟ったような顔をして灰になる ── 思い込みや錯覚、誤解を両手いっぱいに抱えて、世の中こんなものだったんだと。
仏の実存主義哲学完成者ジャンポール・サルトルは言った。
── 実存は本質に先立つ ──
人は先ず生まれる(実存)。そして成長を経た然る後に自己のやりたいことや生き方(本質)を見つける。人生の目的は後付けであり各人で異なるのだ。それは生まれてから後、自らが決めるものなのだ。共通する生来の目的などない。ないものを見つけようとする愚。
晩年になった彼は1939年(S14 56歳)四国松山へ渡る。放浪の間、折に触れて書き残した俳句は8万首に登る。ここで篤志家や知人らの協力で一草庵を結庵。
彼は自己を評して「無能無才」「小心にして放縦」、「怠慢にして正直」と言っている。酒が好きだったがロクに飲む金もなかった。しかし晩年の1年余りは篤志家達の援助で、近くの温泉にも入ることができた。
篤志家達が建ててくれた「一草庵」 「庵」というより立派な家じゃね?
但しこの家は最近手入れがなされ きれいになったようだ。 現物は80年以上も前の家なのだから。
自分で望んだ放浪の旅である。そして最後に人の情けで結庵、ここで没した。その直前の句。
── もりもり盛り上がる雲へ歩む ──
まあ随分お元気になりなすって・・・・ 。放浪中の繊細な感性はフッ飛んでしまったのかしら? 道後温泉に入り酒を飲み元気が出たようだ。そしてある日、本人が望むように庵で「コロッ」と逝った。
その57年の生涯を自身は「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と述懐している(残された日記より)。
── どうしやうもないわたしが歩いてゐる ──
そう、どうしようもないのだ。分かっていながらそのままで生きて来たのだから。目的もなく、力みもせず 家族をも顧みず しかしパトロンや息子の仕送りに頼り、食って飲み自分の好きな時に句を詠む生活。最後にはやはり他人の厚意によって一軒家に住むこととなる。まさにどうしようもない。
なぜ働かない? なぜ手伝わない? そんな軌跡すら見当たらない。彼の人生は寄生虫のそれである。そこには仏教が教える「他利」は無い。彼の俳句による貢献を挙げる者もいるが、それすらも所詮は私欲のなせる業なのだ。好き放題に歩き、飲んでは詠む。そし最期も人の温情にすがっている。私利の完遂ではないか。世俗を超越したスタンスを取りたかったのなら金の無心などすべきでない。そして「野垂れ死に」に帰結すべきである。そんな「意地」も無いのなら、せめて終わりだけは 野山の土になる選択をするべきではなかったか? いやしくも自然を詠む俳人ならそれが「最低限のけじめ」だろう。私はそう思う。